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──────空は雲に覆われている。
 
 空は曇天。厚い雲は太陽の光を吸収し、かわりに水滴を大地にもたらす。
「────────────今日も雨か」
 ガラス越しに見上げた空に、ため息を漏らす。最近、青空というものを拝んでいない。
 一週間連続、曇りか雨。
 別に雨が嫌いと言うわけではないが、ここまで続くと鬱になる。さすがに地面の方も胃もたれだろう。毎日のようにどこかで洪水や土砂崩れのニュース。
 ただでさえ鬱なのに、鬱になるニュースを聞かされる。
 最悪な気分。その最悪の気分を思い出して、ポケットの中を探り
──────カラン
 そんな、間の抜けた音に思い出す。いけない、まだ仕事中だった。
 私は満面の笑みをつくると、
「いらっしゃいませ〜」
 そう、愛想を振る舞った。
 
──────空は雲に覆われている。
 
「はい、シフォンケーキとダージリンティーですね」
 オーダーを確認する。ひどく定番な組み合わせだ。
「先輩、ダージ一つお願いします」
 ショーケース側にいる長い髪の女性に紅茶のほうをお願いすると、
「はいはい」
 ふわふわとした二つ返事が返ってきた。彼女はここのバイトの先輩で、私が入る前からずっと前から働いている。だから紅茶を煎れるのがかなり上手だ。
 紅茶はただお湯を注げばいいというものではない。
 お湯の温度、量、蒸らす時間その全てが噛み合わさって初めておいしい紅茶が煎れられるのだ。しまいには水質によっても変わると言うから、私にはお手上げである。
 先輩が紅茶を入れている間に、私はショーケースからシフォンケーキを取り出した。四分の一にカットして、皿に盛りつける。
「はい、どうぞ」
 タイミング良く、ティーカップが運ばれた。トレイに乗せると、赤く澄んだ液体が薄く波紋を立てる。綺麗だ、素直にそう思った。
 
 時刻は、夕焼けに染まる時間帯となる。しかしガラスに映る空は未だに暗い。
 今日はこのまま日没となるだろう。
 そんなことを思いながら店頭の『OPEN』という札をひっくり返して『CLOSE』にする。
 ケーキ屋なので、ケーキが無くなったら当然閉店である。今日も無事、完売で閉店を迎えた。結構な人気なのだろう。私がここでバイトして、売れ残ったのは数えるほどしかない。客層は午前中は主に主婦達で、午後は学校帰りの学生が多くなる。甘いものであるためか、女性がほとんど、あと、たまにカップル。
「じゃあ、お先に失礼するわね。お疲れ様」
「あ、お疲れ様です」
 ホールの掃除を終えて、キッチンに入ろうとすると先輩とすれ違った。軽く挨拶すると、先輩はふわふわとした笑みを浮かべて
「店長、何か新しいメニューを考えてるみたいだから気をつけてね」
「………………………………………………」
 いったい、何に気をつけろというのだろう?
 そんな先輩の背中を見つめながら、キッチンの扉を開けると、
「無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄──────」
 野太い雄叫びと共に、高速で泡立て器を回転させる強面の男性という、想像を絶する光景が飛び込んできた。
 その異様さにようやく先輩の言葉に合点がいった。
 なるほど、気をつけて、か。
 何の予告もなしにこの光景を見たらトラウマになるかもしれない。そういう私も結構衝撃を受けている。
「無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄──────」
 雄叫びはさらに勢いを増し、回転はさらに速度を増す。
 驚異だ。
 豪快だ。とても洋菓子作りの現場とは思えない。この光景を見て、どうしてあの美術品のような装飾が施されたケーキが出来ると想像できようか、いや出来ない。
 加えて、作りの手の顔が結構強面である。黒いスーツに身を包み、そのまま夜の町に繰り出したらやくざと勘違いされかねない。というか、どこからどう見てもやくざだ。
「う〜む…………」
 私は思わず唸った。
 どういう因果か、この男性が年頃の女子や舌の肥えたマダム達御用達ケーキ屋さんの店長兼メインパティシエなのである。
 パティシエとはもっとも縁が無さそうな顔つきの店長は、
「無駄──────────────────ッ!!!」
 最後一喝して、ボールと調理台の上に置いた。
「………………………………………──────駄目だ、酒が足らん」
 そして決め台詞。ただの台詞なので実際に酒が飲みたいわけではないらしい。
「お疲れ様です、店長」
 タイミングを見計らって、声をかける。
「うっす、お疲れ」
 やはりというか、ケーキ屋さんらしからぬ返事が返ってきた。
「何作ってるんですか?」
「おぅ、豆乳のホイップだ」
「…………………豆乳?」
「今、アレルギー対応ケーキを試作してるんだよ。玉子、牛乳、小麦粉を使わないケーキだな」
「……………………そんなの作れるんですか?」
 玉子、牛乳、小麦粉はケーキの三大要素だ。それを抜いてはスポンジも作れない、と私は思う。
 しかし店長はニヒルに笑って、
「作ってこそ職人ってもんさ」
 まるで刀鍛冶のようないいようだった。
 ロッカールームで制服から私服に着替え、キッチンに戻ってくると
「──────────────────────────────」
 先ほどの雄叫びが嘘のよう。
 水を打ったような静けさで、店長はスポンジにアイシングを施していた。
 一センチ、いや数ミリ単位でデコレーションを施していく。その顔からは想像も出来ない、緻密な作業。ゆっくりと、しかし着実に無愛想なスポンジケーキが芸術品に変わっていく。
 なるほど、刀鍛冶か。自分で言い得て妙だった。
 静と動。先ほどの作業が燃えたぎる鉄を打つものなら、今は刃を研ぐ作業だ。地味で、静かで、しかしもっとも集中を要する場面。
 声をかけるのは憚られた。しばし、その作業に見入る。五分か、十分か、あるいは数十分だろうか。
「ふぅ──────」
 一区切りの付いたらしい店長が大きく息を吐いた。私に気付いた店長がこちらに視線を向けた。
「なんだ、手伝うか? つーか、手伝え。むしろお前が作れ」
「無理ですよ」
 とんでもないことをいう。
「料理ですら滅多にしないんですから」
「安心しろ、三年もあればどうにか体裁は整うようになる」
 三年。それは途方もない年月のように思えた。時間に直すと二万六千二百八十時間。数字で書けば26280時間。すばらしいかな、算用数字。
「じゃ、失礼します」
「おう、学校か?」
「はい」
「うっし、気張っていけ」
 何をだ。
 
 薄く霧をあげながら濡れたアスファルトの上を車が走る。
 頭の上からは、雨が安っぽいビニール傘叩く軽快なリズムが聞こえていた。
 紫陽花の花のように色を競い合っていた傘は、商店街を抜けるとめっきり少なくなり、住宅街を抜けると、私の傘を残すのみになった。
 夕闇の街灯を反射し、鈍色(にびいろ)の光を放つビニールの花びら。
 海沿いの道路を歩く。学校に行くにはかえって遠回りになるルートだが、訳あって私はいつもこの道を通る。
 堤防を乗り越えて砂浜に降りる。ぐっと潮の香りが濃くなった。
 夕闇に沈む海は藍色。その上を暗い雲が走り、水平線の彼方には吸い込まれるような闇が広がっている。暗色のグラデーション。
 私はいつものように、だいぶ昔から放置されている海の家の中に入った。
 暗闇と、埃と砂が支配する空間に割り込む。
 傘を閉じて腰をかけると、私はポケットから紙ケースとライターを取り出した。
 紙ケースからたばこを一本取りだし、口にくわえて火をつける。
 一息吸うと、口の中に何ともいえない味が広がる。
 煙の味。
 吐き出した紫煙はゆらゆらと海月(くらげ)のように周囲を漂い、そして闇に吸い込まれていった。
 しばし波の音と、雨の音に耳を傾け、波が立てる白泡の行方を眺める。
 たばこ。
 昔はあれだけ嫌いだったたばこだが、吸い始めて結構な月日がたった。
 ニコチンの含有量を示す数字は、初めは一桁前半から、気が付けば後半になり、今となっては二桁を示している。
 その下にはこんな表記が書いてある。
『喫煙は、あなたにとって肺がんの原因の一つとなります。疫学的な推計によると、喫煙者は肺がんにより死亡する危険性が非喫煙者に比べて約2倍から4倍高くなります。』
 まどろっこしい表現である。もっとストレートに書けばいいのだ。
 たばこに含まれる発ガン性物質は約十三種類。当然吸えば吸うほど、肺ガンや食道ガンになる可能性が高くなる。
 肺ガンになれば肺を切除、呼吸が浅くなり常に息が切れるような感覚を伴う。
 食道ガンになれば、食堂を切除。残りの人生を食事制限付きで過ごさなくてはならない。
 それだけで済めばいい方で、最悪の場合、ガンが全身に転移し、呼吸もろくに出来ず食事は管を通る点滴のみ、全身を襲う苦痛と共に死んでいく。
 女性の場合はもっと最悪だ。たばこの煙による肌荒れ。そんなものはまだ可愛い方で、骨粗鬆症や生殖器への異常、後は母乳を通して乳児がニコチンを吸収し、中毒を起こす可能性がある。また両親が喫煙していると、乳幼児が突然死を起こすSIDSの可能性が高まるとも囁かれてる。
 百害あって一利なし。まさにその一言に尽きる。
 しかしそんなたばこを私はどうして吸っているのだろうか。
「……………………………………………………………………………………」
 二本目のたばこに火をつけながら考える。
──────私は早く死にたいのかもしれない。
 ふと、そんなことを考えた。
 
──────空は雲に覆われている。
 
 やばい、おなか空いた。
 夕闇に染まる学校に付いた私が抱いた感想は、それだった。
 定時制夜間部。それが私の通っている学校である。
 ちなみに私はたばこを吸っているが、もちろん合法だったりする。進学クラスの中では結構な年長組の方だろう。
 教室にはいると、見知った顔がちらりほらり。席はまばらに埋まり、出席者はいつもより少し多いくらい。テスト前だからだろう。
 友達の何人かに手を挙げて挨拶して、私は自分の席に着こうとした。その瞬間、後ろの席の子、その机の上にサンドイッチがのっかっているが目に入る。
 一瞬忘れかけた空腹が当社比一.五倍になって戻ってくる。正直耐えられそうになかった。このままでは授業中にお腹が鳴って、ささやかな笑いを授業に提供してしまうかもしれない。それは避けたかった。
 後ろの席の子はあまり話したことがない。だから不安もあったが、それよりも話すきっかけになるだろうと思った。
「玉子のサンドイッチもらい」
 少しおどけて、私はサンドイッチをつまみ上げた。
「──────あ」
 軽く驚いた声。
 教室を見渡していた視線が私の方を向く。短めの髪が動きに少し遅れて揺れた。
 ぱっちりとした目、軽く空いた薄いピンクの唇、病的な白さを宿す頬。
 少し気弱そうな表情が、しかしどこか子犬めいていて、可愛い子だと、素直に思った。
 
 後ろの子と他愛もない会話の後、すぐ授業が始まった。やる気があるのか無いのかわからない数学教師の言葉に、私自身もやる気があるのか無いのかわからずに耳を傾け、板書を取っていた。
 進学クラスの授業は全日のレベルと大してかわりがない。授業時間が少ないだけ難しいともいえる。
 まったく柄にもない、と思う。私は進学なんて考えていない。ただ高校卒業を目標とする標準クラスの方ならもっと楽が出来るというのに。
 そもそも、何で私は二十歳を過ぎて定時制の高校に通っているんだろう。
 
 私の両親に関する記憶はあまり多くない上に、最悪なものばかりだ。
 父親は、特に最悪だった。酒とたばこにおぼれ、ギャンブルに手を出し、癇癪持ちでよく母親に暴力を振るっていた。典型的なダメ父親。
 やがて借金を作り、さらに酒とたばことギャンブルにおぼれ、そして私が中学を卒業する前に、父親は死んだ。
 肺ガンだった。
 奇しくも父親の生命保険で借金は返済することが出来た。
 そうして新しい生活が始まると思った矢先、後を追うように母親が亡くなった。
 悲しむとか以前に、あんな父親でも後を追ってくれる人がいるのだとある種の関心を覚えた。
 それが最初で最後に、私が家族に覚えた感情だった。
──────関心
 それはまるで他人に抱くような感情だった。
 こうして私は中学卒業と同時に孤児となった。幸い、母の保険金のおかげですぐには生活に困るような事はなかった。
 しかし、いずれ底が見え始めるのはわかっていた。
 私は高校進学を諦め、バイトを転々とする生活が数年続いた。
 そして今、私はケーキ屋で半ば就職するに働き始め、どういう因果か定時制の高校に通うようになったのだ。
 理由は、時間を持て余したからかもしれない。ケーキ屋のバイトは朝は早いが、遅くとも夕方には閉店する。早い日は午後三時前に閉まってしまうときもある。
 加えて、たまたま近くに定時制の高校があった。
 たまたま、それだけだろう。
 
「──────で──────あるからして」
「………………………………………………」
 途端に苛々してきた。板書を取る字が雑になる。
 たばこが吸いたい。
 しかし今は授業中だ。加えて、今年から校舎内は全面禁煙になっている。かつてあった教師用のたばこ部屋は無惨にも撤去された。夜、誰もいないあの部屋は絶好の場所だったのに。
 最近、たばこの肩身が狭くなっている。
 歩きたばこなんてしようものなら、まるで犯罪者のような目つきで見られる。それを避けるためにファミレスに行けば、喫煙室の方が狭くいつも順番待ち。某牛丼チェーン店なんか全面禁煙だ。
 この国はたばこ愛用者を禁断症状で殺すつもりだろうか?
 まぁ、吸わない人から見れば私たちの方が殺人者か。副流煙の方が毒性が強い。
 思考はたばこの方に吸い取られていく。かろうじて板書は取っているが、頭の中にはほとんど吸収されない。このままでは教室にいても何の意味がない。
 私はその授業が終わると、即座に学校を抜け出し、最寄りのファミレスに逃げ込むことにした。
 
 結局、ファミレスで三時間以上も時間を潰してしまった。初めはたばこ一本で帰るつもりだったのだが、ドリンクバーの代金の元を取ろうと粘っていたら、あと一時間で放課という時間となった。最悪だ。今日も学費が無駄になった。正確な日本語を使うならば、無駄にした、か。
 しかも三時間で一箱消費してしまい、ドリンクバーに重ねてたばこの代金までファミレスに貢いでしまった。癪だったので、結局授業終了までドリンクバー一つで粘ることにした。
 
 教室に戻ると授業は既に終了していた。ホームルームは行われないので、すぐ生徒は帰り出す。ふと、一人の女子生徒と目があった。
「ちょっと、どこ行ってたのよ」
「あ、うーん。なんか気分が乗らなくて……」
 さすがにたばこを吸いに行ったとはいえない。適当に言葉を濁しておく。
「今から私たち遊びに行こうと思うんだけど、どう?」
「いつものメンバー?」
「そ」
 確かに、それは悪くない誘いだった。
「うん、いいよ。じゃあ、荷物取ってくるね」
 自分の席に視線を向けると、その後ろの席で眠りこけている少女が目に入った。
 あのサンドイッチの子だ。名前はわからない。
 暫定的に“後ろの子”と呼ぶことにする。
 後ろの子は腕を枕に、すやすやと寝息を立てている。
 何というか、ものすごく熟睡している。
 気持ちよさそうだ。
 起こすのが可哀相なほどだが、このまま放置しておくと明日の朝まで眠ってしまいそうな勢いだ。
 とりあえず起こそうと思い、同時にいい案が浮かんだ。
「もう一人誘ってみてもいい?」
「え? いいけど……」
 答えを全部聞く前に、私は後ろの子に歩み寄った。
「うり」
 ほっぺたを人差し指で押してみる。白い肌に、人差し指がめり込む。
「……………………………………………………………………………」
 無反応。これは爆睡の域だ。
 今度は旋毛をぐりぐりと押してみた。
「おーい、起きろ〜」
「ぅん……………」
 後ろの子は軽く呻くと
「──────わ」
 ばっと、頭を押さえて身体を起こした。
 うわ、なんかものすごく可愛い。
 私は結構可愛いものが好きだ。
 ケーキ屋のバイトを選んだのも、制服が可愛かったという理由が一番だ。
 後ろの子は、頭を押さえて周囲をきょろきょろと見渡していた。状況がわかってないらしい。
「──────なに?」
「授業、終わったよ」
「…………………………あれ?」
 もう一度、周囲を見渡しようやく納得したようだった。ノートをしまうと、
「…………次は世界史?」
 そんな、かなりずれたことを私に訊いてきた。世界史は確か二時間目の授業だ。
 …………まさか、全部の時間寝ていたのだろうか。
「や、違うって」
 まさかと思いつつ、私は真実を言った。
「今日の授業、全部終わった」
「──────え?」
 後ろの子は子犬のように私を見上げた。そんな瞳でみられても、あいにく私には時間は戻せない。
「──────うそ」
 嘘でも何でもなく、紛れもない真実である。しかし後ろの子は何を思ったか、再び寝に入ろうとした。
「こら、寝るな」
 額にデコピンを放つ。クリーンヒットした中指から小気味のいい音がした。
 少女は額を両手で押さえて、ぼんやりと呟いた。
「うぅ、夢じゃない」
 当たり前である。
 どうやら後ろの子は本当にずっと熟睡していたようだ。誘ってみたが、寝ぼけたような感じで断られてしまった。
 残念。
 いつものメンバーで遊びに行くことになる。
 このメンバーで遊びに行くときはだいたい同じルートをたどることになる。
 三十分ほど前にいたファミレスにリフレインして食事を取り、そしてその後はカラオケだろう。
 私は昇降口で適当にビニール傘を引き抜く。
「──────?」
 ふと、手のひらに違和感を覚える。見ると、取っ手に変な傷が付いていた。
 しかしそれは何の変哲もないビニール傘。
 私は気にせず使うことにした。
 
 
──────空は雲で覆われている。
 
 けたたましい警告音を鳴らす、枕元の存在を止める。
 午前六時半。昨日帰ってきたのが十二時過ぎだから、六時間寝たかどうかというところ。
 寝ぼけた頭を覚ますためにたばこを一本……二本……三本目でようやく覚醒する。
 気怠い身体を引き摺って、シャワーを浴び、食事を取って、私は家を出た。
 見上げる空は、どんよりとした鉛色。
 見渡す限りの雲、一点の青空すら望むべくもない。
 雨が降っていないだけまだマシかもしれない、そう思った。
 
 午前八時半、いつも通り裏口から入ると、既にキッチンでは、
「オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラ──────」
 と店長の奇声が響き渡っていた。パイ生地でも練っているのだろう。
 適当に挨拶して、ロッカールームに逃げ込むと、制服に着替える。
「おはよう」
「あ、先輩。おはようございます」
 ちょうど入れ違いになるような形で、先輩がロッカールームに入っていった。
 開店は十時半だが、その前に相当な準備がある。基本的なところで、ホールや外装の掃除、私のメインの仕事だ。専門的なところでケーキの仕込みなどがあるが、さすがに私は手伝わせてもらえない。それは先輩と店長の分野だった。
 いつも通りの単純作業。ホールを掃き掃除して、テーブルを拭いて、窓ガラスを拭いて、トイレを綺麗にする。地味な作業。それでも、塵一つ無い綺麗なガラスに磨き上げる作業は嫌いではなかった。意外と職人系の仕事が向いているのかもしれない。
 そして開店の十分前。
「おい」
 ぶっきらぼうな声で私は店長に呼ばれた。
「何ですか?」
 キッチンに行くと、そこには厚紙のケースで包装されたケーキがあった。
 これはもしかして、少し嫌な予感がよぎった。
「ここの住所に配達頼む」
 予感はやはり正解した。やったことはないが、配達はめんどくさそうだった。崩さないように気をつけなければならないし、痛みものだからあまり時間もかけられない。今日のように湿気が多い日は特にだ。
 でも店長命令だから、逆らうわけにはいかない。
「わかりました、着替えて──────」
「いや、そのままで行け」
「は────────────」
 私は耳を疑った。
「今なんて?」
「いや、だからそのままで行け」
 次に店長の頭を疑う。
 この格好で? このウェイトレスの格好のまま町を練り歩けと? 白昼堂々?
 私は可愛いものは好きだが、かといってコスプレイヤーのような気概はない。
「でも──────」
 私が渋っていると、眉間に深い皺を刻んですごんだ。
「あぁ? ケーキ屋なめんな。ケーキ屋ってのはお客様に夢を届ける仕事だぞ。クリスマス一ヶ月前からサンタの格好をして配達しに行った俺の雄志を思い出せ」
 雄志というか、狂態というか………行く先々で三百六十度から降りかかる奇異の視線を感じ取らなかったのだろうか?
「行くのか? 行かねえのか? まぁ、行かなかったら給料下げるぞ」
 うわ、横暴だ。非道だ。こんな事が許されていいものか。ケーキ屋は夢を届ける仕事だと言ったのはどこの誰だったか。
「ま、行ったらボーナスアップ」
「喜んで行かせていただきます」
 速攻で頷く私がいた。
 
 ようやく羞恥心にも慣れかけた頃、ようやく住所の示す家までたどり着いた。
 インターフォンを押し、ケーキの配達にうかがったという旨を告げると、間をおかずに扉が開き、まだ若い女性が顔を出した。
 女性は一瞬私の姿を見て固まり、
「────────────ご苦労様」
 いろんな意味を込めてそういった。
「こちらがお届けのケーキです、えっと代金の方が──────」
「はい、ちょうど入ってるわ」
 差し出された封筒を受け取り、金額を確認する。ちょうどだった。
「はい、ではこちらが領収証になります」
 領収証と共にケーキの入った箱を渡す。それで配達は終了。私はすぐ引き返そうとして
「あなたのところの店長さん。いい人ね」
「──────はい?」
 話はまだ続いていた。
 店長がいい人? いまいちぴんと来ない。怖い人、なら即座に同意できるのだが。
 首をかしげる私に、女性は朗らかな笑みを浮かべて説明を始める。
「私の娘、卵アレルギーでね。誕生日なのにケーキが食べられないなんて不憫だなって思って。それで店長さんに相談したら、無卵のケーキをわざわざ特別に作ってくれるって」
「………………………………………………………………」
「その上、配達までしてもらっちゃって」
 女性は穏やかな、そして本当に嬉しそうな笑みを浮かべて
「本当にありがとう。娘も喜ぶわ」
 そう、私に礼を言った。
「………………………………………………はい、伝えておきます」
 私はそういってその場を後にした。
 
 いつものように完売となって閉店を迎える。
 空を見上げると、そこには相変わらず鉛色の空がある。しかしどこかに晴れ間があるのか、その雲は薄く朱に染まり幻想的なグラデーションを見せる。
 早々に先輩は帰ってしまい。またキッチンで店長と二人っきりになる。
 店長は泡立て器のかわりになぜか筆を持っていた。手元には硯(すずり)と習字紙が置いてある。
「──────ふっ」
 店長は息を止めて、その真っさらな紙の上に墨をいれていく。その顔はアイシングを施す時のように真剣だった。
「──────はぁ」
 書き終わったようだった。紙の方をみると
アレルギー対応ケーキ、承ります。是非ご相談ください
「…………………………………………………………………………」
 豪快だった。
 男らしかった。
 まさに漢の字だ。
 武田信玄の『風林火山』に匹敵する逞しさだった。
 遠洋漁業に赴く漁船の旗にしたらどれだけ似合うことか。
 しかしケーキ屋に貼るにはいかがなものかと思う。というか絶対におかしい。
 店長はしばし自分の字を見つめると。うん、と頷いた。どうやらこれで行くらしい。
 私はその店長のやり遂げた男の顔を見ながら、
「そういえば配達に行った家の奥さん」
「ん? あぁ」
 店長は習字用具を片付けながら返事をした。
「ありがとうって言ってましたよ」
「おう」
「娘も喜ぶって」
「おう」
 聞いているのかいないのかわからない態度。ただ、その背中がいつもより嬉しそうなのは、私の気のせいではないだろう。
 いいな。
 ほんの少し、でも確かにそう思った。
 
 昨日より店を出るのが遅かったので、途中でたばこを吸わずそのまま学校に向かった。
 時間が余りたっていないせいか、何となく甘い匂いが髪に付いているような気がする。
 教室に入ると、クラスメイトに声をかけられる。
 他愛もない会話の中で
「あれ? なんかいい匂い。香水?」
 やはり匂いが残っているようだ。
「あはは、ちょっとね」
 私は言葉を濁す。バニラエッセンスだと正直に答えたら、どんな顔をするだろうか。
 
 授業が終了して、放課となる。
 一般に放課後といえば、夕焼けに染まる校舎を思い浮かべるが、私たちにとっては冷たい蛍光灯に照らされた夜の校舎である。
 窓から外をうかがえば、見えるのは虚ろな蛍光灯と私の姿、そして何の情緒もない町のネオンの光。
「今日は一人か……」
 いつものメンバーは都合が悪く、後ろの子を誘ったが今日も駄目だった。
 男関係かと訊いたら、顔を真っ赤にして否定していた。ほとんどイエスといっているようなものである。
 しかし、そんなに活動的な子には見えなかったが………。
「人は見かけによらないねぇ」
 そういうわけで今日は一人になってしまった。
 すぐに部屋に帰るつもりはなかった。
 あの狭い部屋に一人でいると、たばこを吸いすぎる。この前なんて一箱一気に吸ってしまった。
 あまり部屋で吸うと敷金が返ってこないというし、たばこ代も馬鹿にならない。
 仕方が無く、ぶらぶらと散歩をして時間を潰すことにする。
 夜の人混みはあまり好きでなかった。
 人のいない方、いない方。そうしているうちに気が付けば海沿いの道に来ていた。
 街灯すらまばらな薄暗い道。いかにも犯罪にあいそうな道である。もっともこんな道では、犯人すら来そうにないが。
 誰もいないので、ポケットからたばこを出し、口にくわえる。ライターで明かりをつけると、一瞬周囲が明るくなり、後には蛍のような光が残った。
 呼吸に合わせて明滅を繰り返す。なんか綺麗だ。
 とぼとぼと歩きながら、たばこが半分ほど灰になったとき、途端にその明かりが消えた。
「あれ?」
 一瞬遅れて、額に、腕に冷たい感触。
「うわ──────雨」
 ぱらつく程度だった雨は次第に勢いを増し、すぐに本降りとなる。
 傘は持ってない、ここから家までは結構な時間がかかる。走ったとしても、家に着く頃には濡れ鼠だ。
 少し考えたあと、私は最寄りの海の家に逃げ込むことにした。
「──────ずぶ濡れ」
 海の家に転がり込んだとき、既に服は重たく感じるほど濡れていた。湿った布地の感触が気持ち悪い。私は少し迷った後、脱ぐことにした。砂や埃を払って、横たえる。薄手なのですぐ渇くと思う。下着は…………さすがに着けておこう。
 雨のせいか気温が下がり、肌に触れる空気は少し肌寒い。
 私はぎゅっと自分の身体を抱きしめる。
 脱いだ服の中からたばこを取り出し、ライターで火をつける。
「────────────あれ?」
 二、三度火で炙っても、その火がたばこに移ることはなかった。おかしいと思って探ると、先端が完全に水に濡れていた。これでは火がつくわけがない。
「────────────嘘」
 他のたばこも確かめる。一本、駄目。二本、駄目。三本……………………
 結局残ったのは三本だけ、他は全滅だった。
「最悪」
 ぼやきながら数少ないたばこに火をつける。
 一本目を吸い終わる。
 まだ雨は止まない。
 二本目に火をつける。
 雨は、むしろ強くなった。
 二本目が吸い終わる。
 雨は、まったく止む気配を見せない。
 三本目、最後の生き残り。
 私はしばしの逡巡の後、結局火をつけることにした。
 ゆっくりとゆっくりと吸う。
 肺を満たす紫煙、確実に死期を早める毒素。
 それを大事に吸っている。
「…………………………………………………………………………」
 ふと、昼間のあの女性のことを思い出した。
 アレルギーの娘のために、わざわざあの強面の店長に相談しにいった女性。
 見ず知らずの女の子のために、時間を割き難しいケーキを作った店長。
 その二人のおかげで、本来食べられないはずのケーキを食べることの出来た私の知らない少女。
 少女は喜んだだろうか。誕生日に、あるはずのないケーキを見て。
 誕生日ケーキ。
 私はそれを最後に食べたのはいったいいつだろう。
 中学生の時、既に父は嫌悪の対象になっていた。酒とギャンブルにおぼれ、暴力を振るう父。母がいなければ、きっとその暴力は私に向けられていただろう。
 そんな時にケーキなんて食べられるはずがない。
 それ以前、小学校の頃はよく覚えていない。しかし誕生日プレゼントすら残っていないのだ。ケーキなんてあるはずがない。
「──────熱っ」
 考え事をしていたせいか、火がフィルタぎりぎりまで迫っていることに気付かなかった。慌ててもみ消す。軽く指に灰が付く。
 とうとう最後の生き残りまで倒れてしまった。
 雨はまだ止まない。
 たばこは、無いとわかるとよけいに吸いたくなる。
 雨に濡れても構わないから買いに行こうか、そんな本末転倒なことを考える。
 イライラを抑えるため自分の膝に額をつけ、目をつむる。
 暗闇。雨音だけが支配する世界。
 そのままじっと暗闇にいると、次第に雨音が遠のいていった。
 代わりに違う音が聞こえてくる。
 空耳か、それとも現実のものか。
 それは
──────雑踏とうねりのような人の歓声だった。
 
──────空は……………
 
 それは小学校六年生の、私の誕生日の日だった。
 ちょうどその日は第二土曜日で学校は休み。
 まだ無邪気だった私は父にどこかに連れて行ってとせがみ、その先がなんと競馬場だった。
 小学生の、それも女の子を競馬場に連れて行く神経は今でも理解不能だ。でも、いつもとは違う雰囲気を楽しんでいたのも事実だった。
 どうやら父は買った馬券が当たったらしくやけに喜んでいた。
 私は父が喜んでいるのをみて喜んでいた。
「そういえば今日は誕生日だったな。欲しいものあるか? 何でも買ってやるぞ」
 気をよくした父はまさに今思い出したような声で私に言った。
 しかしそんなことはまったく気にせず私は、
「天体望遠鏡」
 何も考えずそう答えていた。
 天体望遠鏡がどれだけ高価か当時の私は知らなかったが、当然予算オーバーだった。
 しかしプライドだけは高かった父は、今更自分の言葉をひっくり返せなかった。
 結局、儲けた金額を次のレースにつぎ込む事になった。
 ……世の中はそんなに上手くいくわけがない。
 すぐに儲けは無くなって、帰りのバス代までつぎ込み、しまいには私のお小遣いまでつぎ込んで、結局残ったのは無価値な紙切れだけだった。
「──────帰るぞ」
 父はぶっきらぼうにそういうと、私に背を向けた。
 その背中は小さく丸くなっていた。
 バス代まで無くなってしまったので、家まで歩くしかなかった。
 父はずっと私の数歩前を歩いていて、私は丸くなった背中を追いかけていた。
 情けなかった。
 恥ずかしかった。
 どうしてこんなのが自分の父親なのかと思った。
 他の家のお父さんはもっと格好いいのに……。
 夕焼けの空を通り越し、夜空の下を歩く。
 長い時間歩いていて、もううんざりだった。
 私はじっとうつむいて、蛍光灯が映す父の影を追っていた。
 ふと、周囲が真っ暗になって父の影が消えた。
 顔を上げる。
 そこはちょうど街灯の切れ目だった。
 海沿いの道。
 人口の光が一切無く、ただ潮騒と虫の音が支配する世界。しかし、明るかった。
 父は空を見上げている。じっと、立ち止まって。
 私も空を見上げた。
「────────────あ」
 満天の星空がそこにあった。
 まるでプラネタリウムのような、しかし本物の星空。
 無窮の煌めき。星の明かりがこんなに明るいものだと初めて知った。
 まるで針の先端を束にしたよう。
 瞬きが目の前で感じられるほど、それは近くに見えた。
 その中でひときわ明るい、三つの星。
「……………………夏の大三角形」
 無意識のつぶやき。それに
「何じゃそりゃ」
 父が私に訊いた。
 呆れた。小学生ですら知っていることを父は知らなかったのだ。
「アルタイルとベガとデネブ、三つで三角形だから夏の大三角形」
「はぁ? ベガってストツーのか?」
「なにそれ?」
 父がひときわ明るい星を三つ見つけるまで私はアレ、アレと空を指さし続けた。
 父はいつまでたっても見つけられず、私の側に来て指さす方向を探し、ようやく見つけられたときには
「アレが夏の大三角形か」
 そう、満足そうに笑った。
 私は──────
 
「────────────ふふっ」
 自分の笑い声で現実に戻ってくる。どうやら、軽く夢を見ていたようだ。
 懐かしい夢。
 忘れていたはずの小学生の思い出、まだ残っていたようだ。
 雨音は聞こえなかった。
 顔を上げる。湿った砂浜、黒く輝く海が目に入る。
「────────────たばこ」
 とりあえずたばこを買いに行こうと、私は服を着て、海の家を後にした。
 ふと、空を見上げる。
 
──────空は、輝いていた。
 
「………………………………………………………………………」
 まるであの日のように、そこには満天の星空があった。
 星は穏やかな光を落とし、ゆらゆらと揺れる水面は幻想的に輝く。
 見上げた空。
 まるで吸い込まれていきそうな錯覚を覚える。
 針の先を束ねたような星が、波のように寄せては引く。
 その中にはもちろん、夏の大三角形もあった。
 こと座のベガ、わし座のアルタイル、そしてはくちょう座のデネブ。
「アレとアレとアレ………か」
 子どもの頃のように、私は空を指さす。
『あぁ、どれだよ』
 ぶっきらぼうに聞き返す、たばこ臭い父はもう側にはいない。
 でも、不思議と
『ほら、夏の大三角形だ』
 そういって空を指さす父の自慢げな顔が今でもそこにあるような気がした。
「……………たばこ買いに行かなきゃ」
 でも、それよりも、もう少しだけここにいたいと思った。
 数年ぶり、忘れた家族を側に感じる。
 まるで少年のように空を指さす父。
 何度も大三角形だと繰り返す父に呆れている母。
 苦笑するしかない私。
 自然に顔がほころぶ。苦笑のような、微笑のようなそんな表情。
 でも、悪くはない、そう思った。
「たばこ、やめよっかな?」
 目に映るのは無窮の星空、輝く海、そしてあるはずのない家族の姿。
 耳に届くのは潮騒と、虫の音と、そしてあるはずのない家族の笑い声。
 
2006/7/29 著

読み終わったら是非感想をお寄せください。今後の作品作りの参考にさせていただきます。
 

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