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永遠の喜び
 
 ──カチッ、カチッ、カチッ
 秒数を刻むように、シャーペンをノックする音が響き渡る。機械的に、無機質に鳴り響くその音は純白の壁に吸い込まれ、消えていった。
 蛍光灯の生白い光に照らされた室内に、僕と彼女はいた。
 僕らの間に会話はなかった。秒針のようなシャーペンの音、めくられたページが擦れる音、そして僕たちの微かな息づかいだけが、室内を満たしていた。
 僕は彼女に視線を注ぐ。適当に整えられた前髪から、彼女の目が覗く。手元の本に落とされた視線は、まるでナイフのように鋭い。左手で本を支えながら、もう一方の手が拍子(リズム)を取るようにシャーペンをノックする。何かを書き取るわけでもない。彼女の手の中では、シャーペンな単なる手慰みの道具でしかなかった。
 ──カチッ、カチッ、カチッ
 彼女はシャーペンの芯を戻さなかった。銀色のペン先から、針のように細い芯が長く突き出している。今にも折れそうで、そして落ちてしまいそうな芯が、少しずつせり出してくる。そして──
「なぁ」
 芯が音もなく床に落ちた瞬間、彼女の視線が僕に向けられた。細められた、ナイフのような視線が僕を射抜く。
「──」
 一瞬、ドキリとする。もしかしたら、ずっと見ていたことに気づかれたかもしれない。
 内側をのぞき込むような視線。しばしの間の後、彼女が紡いだ言葉は──
「永遠の喜びって、どんな意味だ?」
 全くの予想外だった。
「……なんですか? それ」
 ぶっきらぼうな口調で放たれた彼女の問いを聞き返す。
「永遠の喜びっていうのは──」
 彼女はシャーペンを再びノックし始めた。次の芯がせり出してくる。
 ──カチッ
「スイートピーの花言葉だ。他にも門出とか、優しい思い出っていうのもあるらしいが……」
「スイートピー?」
「お前はなにも知らんのだなぁ……」
 呆れた調子の彼女は、本のあるページをめくって僕に見せた。そこには、スイートピーーらしき挿絵が描かれている。細い茎の先に薄い花弁が蝶のように咲いていた。ただ白黒(モノクロ)で描かれたそれが実際にどんな色を付けるのかは、花に疎い僕にはわからない。
「スイートピーの花言葉に『永遠の喜び』っていうのがあったんだが……。といっても花言葉なんて諸説がありすぎてどれが正しいのかわからん。まぁ。今はそんなことはどうでもいい。問題は永遠の喜びっていう言葉の意味だ。お前にはわかるか?」
「はぁ、言葉通りの意味何じゃないですか?」
 ──カチッ
「言葉通りとは?」
「……永遠に続く喜び、とか?」
 ──カチッ
「お前のいう永遠って何だ?」
「………………」
 僕は答えに窮す。一体何の禅問答だろう。
「永遠っていうのは──」
 考え込んでいると、彼女は勝手に話を進め始めた。
「──直線の定義と同じなんだ。始まりも終わりもなく、果てしなく続く。哲学的にいえば、生成消滅のない存在だ。そんな生成消滅のない喜びなんて存在すると思うか?」
「さぁ、人それぞれ何じゃないですか?」
 ──カチッ
「どうかな? 例えばこの本。この本には始まりがあり、終わりがある。生成消滅がないとするならば、気がつけば読み始めていて無限に続くページを一生読み続けることになる。例えどんなに内容が面白くても、そんなものは喜びどころか、地獄に思えてならない」
 ──カチッ、カチッ、カチッ
「喜びは始まりがあって終わりがある、有限の存在だからこそいえるんだ。永遠の喜びっていう言葉は、自己矛盾してるんだよ」
 ──カチッ
 彼女が言葉を切ると同時に、またシャーペンの芯が床に落ちる。しばらくの間、僕らが見つめ合った後、また彼女は本に視線を戻す。まるで会話なんて無かったかのように、沈黙が部屋を包み込む。
 シャープの音、ページの擦れる音、僕たちの息づかい。
「………………」
「………………」
 ふと、視線を下に向ける。彼女の足下、そこには無数のシャーペンの芯が転がっていた。芯は重なり合い、まるで真っ黒な床のように彼女の足下を埋め尽くしていた。見ると、僕の足下にまでその黒い床は到達していた。足を動かすと、微かな音を立てて黒い床が蠢く。
 そう言えば──と思う。
 僕らは一体いつからこうしているのだろう。気がつけば、ここでこうしていたような気がする。思い出そうとすると、頭の中に霧がかかるように思考が鈍った。
 ここはどこなのだろう。周囲に視線を巡らせる。真っ白な壁。強い蛍光灯の光に照らされて、壁までの距離感が掴めない。目の前にあるようにも、遥か遠くにあるようにも、そもそも壁なんて無いようにも見える。眩暈を覚えた。
 僕は怖くなって、視線を戻した。当たり前のように本を読み続ける彼女。その様子が、僕に落ち着きを取り戻させる。
 ──カチッ
 僕たちは一体どれだけこうしているのだろう。わからない。僕たちはいつまでこうしているのだろう。ワカラナイ。でも、それでもよかった。
 ──カチッ
 彼女はずっと同じ本を読み続けている。終わりのない本を。
 僕は彼女をずっと見続ける。終わりのない本を読む彼女を。
 永遠の喜びなんて、存在しないといった彼女。
 でも僕には、そんな彼女を見続けることが喜びだと感じていた。
 
2007/6/22著

読み終わったら是非感想をお寄せください。今後の作品作りの参考にさせていただきます。

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