やっぱりTopに帰還する






──────雨は嫌いだ。
 
 窓の方を見ると、甘い、どこか黴くさい風が吹き込んでくる。
 見上げるまでもなく、空は暗い鉛色の雲に満たされていた。
 雨。
 土を掘り返す雨、雨樋を伝う雨、蜘蛛の巣に雫をつくる雨………
 雨、雨、雨──────
 
──────雨は嫌いだ。
 
「…………………………………………はぁ」
 朝から気が滅入る。
 ……もっとも世間では、もう朝と呼ばない時間帯。
 寝過ぎだろうか。頭が重い。気怠い身体を引き摺って、開け放たれた窓を閉める。
 雨音が遠のく。
 ぬるい空気。こもった空気、暖かな毛布の感触、吐息の熱さ。
 感じるのはそれだけ。
 時計の秒針の音、私の呼吸の音、遠い雨音。
 聞こえるのはそれだけ。
 まだ時間はある。
 もう一眠りしようか。
 思ったときには、もう意識は眠りに落ちていた。
 
 
 次、起きたときはもう既に夕方だった。
「────────────わ、いけない」
 ちょっと寝過ぎた。焦る。
 外に目をやると、まだ雨が降っていた。げんなりする。このまま休んでしまおうか。
「────────────駄目駄目。もうすぐテストがあるんだから」
 誘惑に負けそうになる意志に鞭を打ち、身体を起こす。
 一日中寝ていたせいか、それとも湿気のせいか、髪がベタベタする。このままでは外に出られない。
 タオルと着替えを取って浴室を目指す。一、二、三、四、五歩で到着してしまう狭い部屋。
 洗濯かごに着衣を落とし、蛇口をひねる。シャワーの水流に手を当てると冷たい水が、しかしそれは徐々に温かくなり、熱くなった。温度を調節して、頭から温水を浴びる。
 温かさが頬を、胸へ、おなかへ、そして足へと流れていく感触が心地いい。温まっていく身体、同時にけだるさが取れていく。
 一通り身体を洗って、着替えて、ドライヤーで頭を乾かす。
「──────────────────む」
 微妙におなかが空いた。しかし、ご飯を食べていては遅刻してしまう。
 仕方がない、コンビニで何か軽食でも買っていこう。
 鞄に勉強道具を詰め込むと、私は傘を取って、雨の元に飛び出した。
 
──────雨は、やっぱり嫌いだ。
 
 ようやく学校に着く。
 傘をしまって、傘立てに建てておく。
 ふと、途中で買ったコンビニの袋が濡れていることに気付いた。
「────────────わ」
 慌てて中を探る。………大丈夫。中はそんなに濡れていない。
 これだから、雨の日は外出したくない。
 袋に付いた水滴を払いながら、そう再確認した。
 人気のあまりない校舎。当然だ。大多数の生徒はもう下校してしまっているのだから。
 じゃあ、そんな時間に、しかも私服で登校してくる私は何なのかというと、別にものすごい理由があるわけではない。
 ただ単に、私が定時制の女子高生というだけなのだ。
 
 階段を上って、定時制の教室に入る。始業の十分前、出席している人はまばらだった。
 全日制と違って、定時制の授業は単位制で行われる。つまり、テストで必要な点数を取って単位さえ取ればいいのである。出席に関しては全日制ほど厳しくはない。もっとも、休みすぎると“泣き落とし”が使えなくなるので、結構考え物。
 あと定時制に通う生徒には基本的に二種類いて、ただ単に高校卒業という資格が欲しい人と、大学への進学を目指すものの二種類である。
 私はというと、一応後者の方である。………一応だけど。
 クラスもそういった風に分かれており、私のクラスはやはり大部分が同年代か、あるいは少し上の生徒である。もう一つのクラスの方には、年配の方が多い。
 自分の席に着くと、私は買ってきたサンドイッチとペットボトルと机の上に乗せた。なるべく人が多くなる前に食べてしまいたい。
 少し時間がたつと、人がだんだん増えてくる。全日制と違って生徒間の交流が少ないせいか、会話はあってもまばらだ。私も顔と名前が一致する生徒はほとんどいない。
「玉子のサンドイッチもらい〜」
「────────────」
 教室を見渡していると、ふと正面から声。
 見ると、ちょうどサンドイッチが一切れ細い指で持って行かれるところだった。
「あ──────」
 顔を上げると、そこには綺麗な栗毛の少女がいた。ちょうど玉子のサンドイッチを噛みちぎるところだった。
 私のサンドイッチ………。玉子が一番好きなのに。
 軽いショックに打ちひしがれていると、
「あ、ごめんごめん。おなかが減ってついつい」
 誤っておきながら、サンドイッチを食べるのはやめない。
「好きなものは一番最後まで取っておくタイプだった?」
「──────別に」
 まさにその通りだったりする。悔しいので否定しておく。
 でも、うぅ、玉子……………。
「そんな親の敵みたいに睨まないでよ。はい、お詫び」
 彼女は苦笑して、私にガムを差し出した。キシリトール配合のガム。受け取って口の中に放り込んだ。
「………………………………………………」
 うぅ、辛い。
 実はミント系が苦手だったりする。
「しっかし、最近雨ばっかだねぇ」
「…………………………………うん」
 彼女は私の前の席に足を組んで座った。その格好はどこかモデルのようで、綺麗だった。彼女の歳はいくつだろう。定時制にいると、年齢の話は結構し辛い。
「やっぱり梅雨かねぇ」
「………………………………うん」
 まさか二十歳を超えていることは無いだろうけど、一つか二つ年上かもしれない。
「でも、こういうときは相合い傘イベントが発生してそのままお持ち帰り〜なんて事が──────」
 前言撤回。やっぱりオヤジかもしれない。
 このように親しげに会話しているが、私は彼女の名前を知らなかったりするのである。
 
「───────して─────であるから──────」
 遠くで人の声がする。
「──────故に次の式は──────よってこの答えは──────」
 声は遠のいたり、近づいたりでよく聞き取れない。断片化された状態で聞こえる言葉は脳に留まらず、闇の中に消えていく。
「──────────────これはテストに出るからなちゃんと書いておけよー」
「──────────────────っ」
 それで意識が覚醒した。いけない、今は数学の時間だった…気がする。
 寝ているうちに授業が変わっている、なんて悲劇は幸いにも無いようだ。
「──────うぁ」
 ノートを見ると、壊れた地震計が書いたような字がのたうっている。というか字ですらない。さらに最悪なことにノートによだれが垂れていた。慌てて拭う。
 そして先ほどテストに出ると先生がのたまった数式を慌てて写し始める。
『四人の生徒が円形のテーブルに座るとき、座り方は何通り──────』
「じゃあ、次の問題行くぞー」
「ぁぅっ」
 消された。まだ問題しか書いてないのに。ひどい。ちゃんと書いておけといいながら、書かせる暇を与えないなんて。いじめだ。いじめには断固たる態度で立ち向かわなければいけない。そういうわけでストライキだ。
 自分が眠っていたことなど真空パックにして棚の上に上げ、私はそそくさと眠ることにした。
 
──────雨は嫌いだ。
 
「お〜い、起きろー」
「────────────わっ」
 つむじに妙な感触を覚えて飛び起きる。慌てて顔を上げると、そこには栗毛の彼女がいた。人差し指が私のことを指しているあたり、彼女が私のつむじを押したのだろう。
 やめて欲しい。おなかが下るから。迷信かもしれないけど。
「……………………………なに?」
「授業、終わったよ」
「…………………………あれ?」
 いつの間に………えっと確か次の授業は──────
「…………次は世界史?」
「や、違うって……………」
 彼女は呆れたような表情を見せた後、
「今日の授業、全部終わった」
 苦笑と、若干の哀れみを込めてそういった。
「…………………………え?」
 時計を見る。
「…………………うそ」
 確かに今は終業の時間だった。外は真っ暗。未だにしとしとと雨が降っている。
 うそだ、あり得ない。まさか四時間も教室で寝通すなんて。あぁ、あり得ないのだからこれは夢だ。きっとそうに違いない。だからもう一度寝てしま──────
「こら、寝るな」
 額にデコピンをされる。威力はそれほどでもなかったが、長い爪のせいか予想以上に痛かった。
「うぅ………夢じゃない」
 額をさすりながら、唸る。これでは学校に何をしに来たのかわからない。それどころか、このままでは一日の活動時間がとんでもなく低い水準で保たれてしまう。まるで寝子だ。
「でも、おもしろかったよ〜。声をかけても全然起きないんだもん。先生も呆れてたって」
 ということは私が寝ていた事はクラス全員が知っているのだろうか。
「あぅ──────」
 恥ずかしい。顔が熱くなっていくのを感じた。
「ま、それはおいといて。これから私たち、ちょっと遊びに行こうと思うんだけど、どう?」
 首を傾いで示した先には、数人の女子がこちらを見ていた。仲のいい友達らしい。
 私は────────────
「…………………………今日はいいや。雨も降ってるし」
 少し考えてから、断った。
「そっか。まぁ、雨の降ってる日は外出したくないよね」
「ごめんね、また誘って」
「いいっていいって、じゃーねー」
 彼女はほっとするような笑顔を浮かべると、半ば駆け足で仲間の元に駆け寄り、そして教室を出て行った。
 私も勉強道具を鞄に入れて、忘れ物がないか確認する。この教室は全日クラスでも使うので、万が一何か忘れたら悲惨なことになる。
「うん、大丈夫」
 今、教室に残っているのは私だけだった。荷物を確認すると、私は明かりを消して、教室を出た。使用する最低限の明かりしかついていない廊下は、どこか寒々しい。窓ガラスにぼんやりと映る自分の姿はちょっとしたホラーだ。怖いものが苦手な人には、おすすめしない光景である。
 私にとっては、結構こういうのは好きである。
 誰もいない教室。所々陰を見せる廊下。よく響く自分の足音。静けさ。無人。
 落ち着く。
 階段を下りて、昇降口を目指す。私たち定時制の生徒には専用の下駄箱が割り当てられていないので、上履きを持ち帰らないといけない。結構めんどくさいし、荷物になる。
 靴を履き替え終わって、傘立てから自分の傘を────────────
「………………………………………あれ?」
 傘がなかった。私の傘は何の変哲のないビニール傘だけど、取っ手に変な傷が付いているからすぐわかる。二、三本別の傘はあるけど私のじゃない。
「……………だれか、持って行っちゃったのかな?」
 だとしたらちょっと悲しい。あの傘はだいぶ前から使っていて、少し愛着があった。定時制の生徒だろうか、もしかしたら残っていた全日制の生徒かもしれない。
 嫌だな。もしかしたら私の傘としって──────
 そんなわけがないとわかっていても、そう想像してしまう。
 悪い癖だ。
 悪いとわかっていても、どうしてもやめられない。
 急激に、見えない人を意識する。
 見えない人が私を見る。見えない人が私の声を聞く。見えない人が私の事を笑う。見えない人が私に言葉をかける。見えない人が私を。見えない人が私に。見えない人が私を。見えない人が。見えない人が。人が人が人が人が人が人が────────────
「どうしたの?」
「────────────────────────っ」
 声。それは現実の声。振り返る。
 そこに、一人の少年が立っていた。彼は私服を着ていた。どこかで顔を見たような気もする。きっと定時制の生徒だろう。もしかしたら同じクラスかもしれない。
「? どうかした?」
 線の細い声が、同じ問を繰り返す。
「え──────あ、の」
 動悸が激しい。まだ息が荒い。冷や汗が体中から吹き出る。気持ち悪い。目が回る。空間が歪む。このままだと、また──────
「傘、忘れたの?」
「────────────う、ん」
 真っ直ぐ顔を見られない。おかしな子と思われるかもしれない。不安。胸が苦しい。息が出来ない。足下が揺らぐ。不安。怖い。怖い。怖い。
「──────────────────」
 恐怖と不安は、
「はい」
 優しい声と
「──────────────────え」
 差し出された折りたたみ傘に、打ち消された。
「使って」
「でも──────」
 彼は柔和な笑みをさらに強めて、
「いいから。家、近いんだ」
 強引に私の手に傘を握らせた。一瞬手が触れる。温かい手だった。
「じゃ、夜道に気をつけてっ」
 彼はそういうと、雨の中を駆けていった。暗い校庭の闇に包まれ、彼の姿はすぐに見えなくなる。私の手には、彼の傘が残された。
 聞こえるのは雨音と、風の音と、そして少し早い心臓の鼓動。
 感じるのは冷たい夜の空気と、湿った空気の感触と、かすかに残る手の温もり。
 私はそっと傘を開いた。
 
──────雨は……………
 
 
 目が覚めると、やはり時刻はお昼にさしかかった頃だった。
 開け放たれた窓から見える空は、どんよりとした色。でも雨は降っていない。
 肌で感じる空気は、どこか生ぬるく、湿っている。
 不思議だ。
 なにが不思議かというと、どうして自分はこんなにも眠れるのだろう。
 昨日は日付が変わる前に寝た。だというのに、どうしてこんな午前と午後の狭間まで眠ってしまうのか。そしてさらに今起きたこの瞬間、二度寝の誘惑にあっているのだろう。
 きっとこれは陰謀に違いない。悪魔が私に取り憑いているんだ。弱い私があくまの誘惑に勝てるわけがない。今手元には十字架もない、冷蔵庫にもにんにくは貯蔵されていない。おっとそれは吸血鬼か。とにかくそういうわけで、悪魔の誘惑に負けてしまっても仕方がない。悪魔の名は、きっと“睡魔”だ。
 そんなくだらないことを考えているうちに、私の意識は誘惑に堕ちていた。
 
──────雨は……………
 
「──────────────────なんで」
 陰謀から脱出した私を待ち受けていたのは、新たな陰謀だった。
 時刻は既に夕方を示し、外の光景はどんよりと重く、しかしどこか赤みがかっている。
 学校には十分間に合う、しかし身だしなみを整えるためにシャワーを浴びるか、夕飯を用意するか、どちらかしか選べない時間帯である。
 私は迷うことなく、前者を選んだ。仕方がない、今日もコンビニで済まそう。きっとこれは陰謀だ。コンビニ会社が私をコンビニ無しでは生きていけない駄目人間に仕立て上げようとしているに違いない。きっとドリンクやお弁当の中に睡眠導入剤でも入れているんだ。
 そんなありもしない想像をしながら、シャワーを浴びた。
 いつも通り髪を乾かしながら私服に着替える。この私服選びが結構大変だ。あんまり変な服は着ていけないし、かといってじっくり選ぶ時間もない。時々制服がうらやましくなる。定時制でも採用してくれればいいのに。…………いや、結構なおばさんにセーラー服を強いるのは拷問か。
 自分のした想像に苦笑しながら、結局いつもと同じような服を選ぶ。そしていつも通りに鞄に荷物を詰め込んで、玄関を飛び出す。
「────────────あっと」
 アパートの階段を下りたところで、忘れ物を思い出す。玄関に戻り、すぐ立てそこに置いてあった折りたたみ傘を手に取った。
 昨日しっかり渇かし、そして折りたたんだ傘。もう一度おかしいとこがないか確認して、私は鞄の中に傘をしまった。
 いつもは邪魔に思う傘も、今日はあまり気にならなかった。
 
──────雨は、嫌い?
 
 
 昨日食べられなかった玉子のサンドイッチを口に運ぶ。玉子のふんわり感と、マヨネーズと胡椒のハーモニーが何ともいえない。やはりサンドイッチといえばこれだ。
「そんなにサンドイッチが好き?」
 既に登校していた彼女が呆れた声を上げる。
「────────────どうして?」
「そんなに幸せそうな顔して食べられたら、誰でもそう思うわよ」
 どうやら顔に出ていたらしい。ちょっと恥ずかしい。
 始業までの間、彼女と少し雑談する。その間にふと思った。
「男の子って、雨に濡れるのって気にしないのかな?」
 それは昨日の彼のこと。
「さあ? 誰でも雨に濡れるのは嫌じゃない。でも、どうして?」
「────────────ちょっと気になっただけ」
 彼女は瞬き二、三回ほど私を注視して、そして、
「まぁ、ブラが透けないからその辺は気にしないのかもねぇ」
 意外と説得力があるような気がした。
 授業が始まる。教室を見渡して、彼を捜した。しかし出席している人の中に、彼の姿はなかった。欠席か、あるいは違うクラスか。名前を聞いておけば良かったと思った。
 でも様々な事情により、一時間目を欠席するのはよくあること。私は気長に待つことにした。
 
 そして全ての授業が終わる。
「──────────────────うそ」
 奇跡だ。そうとしか思えなかった。
 全ての授業を、私は一睡もせずに受けきった。あり得ない、こんな事は中学校、いや、あるいは小学校以来かもしれない。
 もっとも授業の内容なんかちっとも頭の中に残っていないけど。
 でも、ノートはきっちり取った。これだけでも破格の差だ。いつもは一ページの三分の一も使わないうちに授業が終了してしまうのに。
 よし、今の気分なら苦手な古文も大丈夫かもしれない。そう思ってノートを読み返す。
『次の文を現代語訳せよ。
これはうちまかせて、理運のことなれども、かの卿の心には、これほどの歌、ただいま詠み出だすべしとは、知られざりけるにや。 
訳:
「────────────何で」
 そして私は絶望した。
「──────答えがないの?」
 ノートはアルツハイマーの蜂がつくった蜂の巣以上に穴だらけで、重要な部分が抜け落ちていた。これはむしろ暗号に等しい。
 漂流しているところを豪華客船に助けられたと思ったらタイタニック(沈没船)だった。そんなショックを覚えていると
「これは普通一般には道理にかなっていることだけれど、 あの定頼卿の心の中ではこれほど優れた歌を、即座に読み出すことができるとは、ご存知なかったのだろうか」
「────────────え」
 突然、頭上から神の声が聞こえてくる。絶望のあまり昇天してしまったのだろうか。
 呆然と顔を上げると、
「そこ、そういう訳だよ」
 あの栗毛の彼女が私のことを笑顔で見下ろしていた。私は慌ててシャープペンシルを取ると、
「えっと………これは普通一般には道路になっている──────」
「違う違う。道路じゃなくて道理。なによ、道路になってるって──────」
 焼け石に水かもしれないけど、彼女の言葉をとりあえず写しておく。彼女も私に付き合って、何度も復唱してくれた。
「でも、結構集中してると思ったんだけど、全然駄目じゃない。まったく、なにに気を取られたんだか──────」
 最後の部分を写していると、彼女がそんなことをぼやいた。
「これはもしかして恋煩い?」
「──────────────────っ」
 手がすべった。ノートに再び、狂った地震計が登場する。震度8といったところかも。
「ちっ──────違うよ」
 消しゴムをせっせと動かしながら反論する。彼女は、嬉々として。
「確かに、そんなイメージ全然無いよね〜」
 む、それはそれでなんか嫌だ。
「ところで、今日もカラオケでも行こうと思うんだけど、どう?」
「え……………」
 今日も誘われてしまった。二回連続で断るのはなんだか気が引けるけど……。
 私はそっと鞄の中にある折りたたみ傘に目を遣った。
「ごめん。今日も先約あるんだ」
「あぁ〜、そっかぁ。残念」
 と彼女はさして残念そうもなく笑って、
「さては男か」
「ち、ちがっ──────」
 反論するころには彼女はもう教室を出て行くところで「馬に蹴られないように、さっさと退散するよ〜」なんていっているのが聞こえた。
「────────────あぅ」
 今更、自分の顔が熱くなっているのを感じた。別に、確かに男の子とは会うけど、別に彼氏とかそういうわけじゃなくて、そもそもまだ名前さえ知らないわけで、でも名前を知らないといったら彼女の名前も知らないわけで、むしろこのクラスで名前を知ってる人は誰もいないかも──────
「あ」
 そこで思い出した。
 彼は結局、今日は来なかった。もしかしたら別クラスかもしれないけれど、もう帰ってしまっただろう。早く昇降口にいって待ってるつもりだったのに…………。
 唐突に、中途半端なノートを取った自分が恨めしくなった。こんな事ならいつも通り寝ておけば良かったかもしれない。
 軽い落胆を覚えつつ、荷物を整理する。あんまり遅くまで残ってると警備員さんに見つかってしまう。それは避けたかった。別に悪い事をしているわけでは無いのだけど……。
 教室の明かりを消して、薄暗い廊下を歩く。
 足音が反響してまるで自分の後を誰かがつけているようだった。立ち止まる。一歩遅れて“足音”も立ち止まる。その場でタップダンスを踏んでみた。“足音”もタップダンスを踏んだ。うん、やっぱり幽霊じゃない。
 さすがにタップダンスを踏む幽霊なんかはいないだろう。いたらいたで、ある意味怖い気もするけど。
 ふと鞄に入った折りたたみ傘が気になった。たぶん、今日は渡せない。
 急に彼のことが心配になった。もしかしたら今日休んだのは昨日雨に濡れて風邪を引いたのかもしれない。休んでないかもしれないけど。
 それに最近は特に雨が多い。傘がないと不便だろう。予備の傘があるかもしれないけど。
「…………………………………」
 私は彼のことをよく知らない。名前も、どこの誰なのかも、同じクラスなのかも、そもそも定時制の生徒なのかも。せめて、名前さえわかっていれば──────
「え────────────」
 私は息を飲んだ。
 薄暗い昇降口、そこに誰かが立っていた。逆光で顔がよく見えない。男の子のような気がする。彼かもしれない。彼じゃないかもしれない。彼のような気がする。彼ではないような気がする。
 人影はちょうど靴を履き替えているところだった。もうすぐ行ってしまう。声をかけないと。でも人違いだったら。でも、もし彼だったら。
 ここは一か八か、大きく息を吸って声を──────
「──────あれ?」
 賭けには、戦わずして勝ってしまった。
「昨日の」
 振り向いた男の子はやはり彼だった。
「は──────はいっ!」
 吸い込んだ息のせいで、無駄に大きな返事が出た。
 
──────雨は嫌い?
 
 街灯の明かりに照らされ、夜道に二つの陰がのびる。
 一つは私。もう一つは彼の。
「やっぱり定時制クラスの方なんですか?」
「うん、一応進学クラスの方」
 私が質問すると、彼は笑顔で答えてくれた。
「あ、じゃあ、同じクラスですね」
「そうだね。けど、あんまり授業には顔出さないから」
「それでも、進学の方にいられるって事は頭がいいんですね」
「そんなこと無いよ」
 他愛もない話をする。
 私が誰かと、それも男の子と一緒に帰る事があるなんて夢にも思わなかった。しかも今は夜道。まるでデートのよう。
「──────────────────っ」
 思い至ってから、急激に今の状況が恥ずかしく感じられた。顔が熱い。今が夜で本当に良かった。昼間だったら、真っ赤になった顔が丸わかりだ。そんな顔を見られたら、さらに顔が赤くなって、そのうち爆発してしまう。命に関わる事態だ。
「どうかした?」
「いいえ、全然大丈夫です。夜なので死にません」
「??」
 でも、一回意識してしまうともう駄目だ。彼の体温を感じられる距離。今更離すのも不自然だし、かといってこのままでは胸の動機が収まらない。とにかくどうにかして顔、いや全身を冷やしたい。
 そう思った瞬間、
「──────え?」
 ぽつ、と鼻先にひやりとしたものが当たった。夜空を見上げる。墨をとかしたような闇の中にはなにも捉えることが出来なかった。しかし、ぽつ、ぽつと今度は額に、腕に。
 
──────雨は
 
「雨」
 彼がぽつりと呟いた。
 それで思い出す。彼に会えたことで舞い上がり、すっかり失念していた。私は鞄の中から折りたたみ傘を取りだして、彼に渡す。
「今日はこれを渡そうと思って………」
「あぁ、そういえば貸してたね」
 どうやら忘れてたらしい。
 彼は傘を受け取ると、すぐその場で開いた。ばっと、あまり大きくない傘ができあがる。
「はい」
「え──────」
 彼はそれを、私に差し出した。
「使って」
「でも──────」
「僕は大丈夫、家はもうすぐだから」
 彼は笑顔で勧めるが、二日連続で彼を雨の中を走らせるのは気が引けた。
「なら──────」
 そして、
「一緒に入りませんか?」
 言葉は考えるより先に出た。
「え?」
 きょとんとする彼。
 いやがられただろうか。恥ずかしさの前に、不安に囚われる。私は誤魔化す方を必至に考え、
「あぁ、それは思いつかなかった」
 すっと、彼は身体をずらし、私と彼の身体を両方を傘の中に収めた。傘の上で、雨音が軽快なリズムを刻む。彼の身体が、彼の体温がぐっと近づいた。
「じゃあ、家まで送るよ」
 彼が歩き出す。私もそれに続く。
 私の歩調に、彼があわせる。
 足音が二つ、綺麗に重なる。
 街灯を、一つ追い越す。
 真っ暗な夜道、雨に濡れたアスファルト、その上に、くっきりと相合い傘が描かれた。
「そういえば、自己紹介がまだでしたね。私は──────」
 
──────雨は意外と好きかもしれない。


2006/7/19著

読み終わったら是非感想をお寄せください。今後の作品作りの参考にさせていただきます。



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