脱出しますか?


夕立
 
 その瞬間はいつも無音になる。
 耳鳴りを覚えるほどの静寂に、普段は聞こえない心音が頭に響く。その鼓動は早く、熱い血潮を体に送り出す。
 石粒を押す指が震える。引き絞られた体はまるで弓のように、打ち出されるのを今か今かと待ち受ける。
(落ち着け)
 前を見据える。きっちり100メートル先に何もない空間がある。そこが私の目標だ。線引きすらされていない。しかし、天国と地獄ぐらいの差があった。
 目を閉じ、大きく息を吸う。手の震えが止まる。
 肺を満たした酸素が全身に行き渡るのを感じる。同時に、心臓の鼓動が遠くなる。
 海の底に潜るように、静寂へと包まれていく。深く、深く、深く。胸の鼓動さえも、呼吸の音さえも、体の熱ささえもが消え去る。耳鳴りすら覚えない。
 そして、
 音が静寂を撃ち抜いた。その音が一体どんな音だったのか、確かめる余裕もない。
 ただ指先で、腕で、足で、脹ら脛で、腿で、全身で地を蹴る。
 忘れていた熱が全身を駆けめぐる。
 重心を前に、低く、低く、狩りを始める肉食獣のように、がむしゃらに足を進める。
 前傾から直立へ。視線はただ一点を、天国と地獄の境界線のみを見つめる。
 足を前へ、もっと前へ、もっと、もっともっともっと。
 大腿四頭筋が悲鳴を上げる。エネルギーを燃やし尽くした筋肉が酸素を求めて暴れ出す。
 懸命に振る腕は鈍く、見据えた視界がぼやける。
(まだ)
 空気が重い。蜘蛛の糸のように体を絡め取っていく。
 体が鈍い。体を巡った熱が一気に冷え切っていく。溶けた鉄が冷え固まるように、体が思うように前に進まない。
 胸が痛い。心臓の鼓動がやたらと頭に響く。限界を超えた拍動が、全身にSOSを告げる。
 息が苦しい。食いしばった歯の間から空気が漏れ出る。酸素を求めて肺が痛みを放ち、酸欠に視界が色を失う。
 苦しい。
(もう少し)
 苦しいっ、苦しいっ苦しいっ苦しいっ苦しいっ。
 無意識に酸素を求めて口が開き、そして──
 ──瞬間、それは訪れた。
 痛みが、苦しみが、熱が、重さが、何もかもが消え去る。
 軽い。先ほど感じていた重さが嘘のように、体が軽かった。
 頭に響き渡っていた拍動は消え去り、鈍い腕の感覚はどこにもない。
 体はまるで羽根のよう。これならいつまでだって走り続けることが──
「はいっ! ゴール!」
 よく通る声が私の耳を撃った瞬間に、その感覚は消え失せた。
 突如全身を虚脱感が襲った。体の重さは鉛から鋼鉄へと格上げされ、胃の下には煮えたぎったお湯が溜まっているような感覚が走る。いくら肺に空気を取り入れても足りない。酸欠による眩暈に思わず目を閉じた。
 その苦しさは走っているときの比ではない。ゴール直前の体の軽さもあって、まさに天国から地獄へ突き落とされたような落差だ。
「はいはい、倒れ込まない。歩く歩く」
 私の衝動を先取りして、声が釘を刺した。片目をこじ開けて、声の主に視線を向ける。
 ジャージの上を流れる黒髪が、彼女の動きにつられて波打つ。暗褐色の長袖長ズボンとしか形容することが出来ない、ただ機能性とスクールカラーのみを追求した、巷でださいと有名なジャージでも、彼女が着るとどこかおしゃれに見えるから不思議だ。
 私は荒い呼吸を抑えて声を発した。
「綾乃、タ、タイム、は?」
「9秒65よ」
 それは世界新記録だ。しかも男子をぶっちぎりで。
「ふ、ふざけっ」
「冗談。ただいまの〜倉橋葵さんのタイム〜」
 綾乃はおどけた調子で胸元にかけたストップをっちをのぞき込むと、タイムを告げた。
「12秒25」
「うぁ」
 聞いた瞬間、疲労が一気に増したような気がした。ようやく落ち着きを見せた呼吸で大きくため息をつく。
「タイム、落ちてる」
 思い出したように額にじっとりと汗が浮かぶ。湿った生温い風が不快に肌を撫でていった。
「ま、仕方がないわ。最近までずっと梅雨で、ろくに練習できなかったしね。はい、タオル」
「ありがと」
 綾乃が差し出したタオルを受け取って体の汗を拭く。額の汗を拭うとき、微かにタオルからいい匂いがした。きっとハーブか何かの香水だろう。綾乃はよくこういうしゃれたことをする。大きく息を吸い込むと、少し気分が落ち着いた。
 髪を濡らす汗を拭き取る。男子並みに短い髪の毛はすぐに乾いていった。
「でもまだ大会まで時間があるわ。それまでにはベストタイムに持って行けるでしょう」
「ん、そうだね」
 綾乃のフォローに頷いて、私は大きく体を伸ばした。疲労で固まった筋肉が引き延ばされる。伸びた筋肉が縮んでいく感触がどこか心地よい。
 天に伸ばした手に、何か冷たいものが当たった。
「ん?」
 顔を上げると、視界一杯に灰色の空が広がった。鉛色の空は所々水に墨を流したように黒くなっている。不気味なグラデーションを見上げていると、今度は頬に何かが当たった。雨粒だ。
「うぁ、降ってきた」
「そうね」
 綾乃も私と同じように空を見上げていた。手に持ったクリップボードが濡れないように胸に抱きしめている。
 会話をしているうちにも、雨足は徐々に強くなってきた。露出の多いウェアからはみ出した肩と太ももが雨に濡れていく。
 そんなに強くないから、まだ走れるかもしれない。梅雨の間は、ほとんどまともな練習が出来なかったから、少しでも練習時間が欲しい。
 そう思いつつ、綾乃に視線を向ける。綾乃は雲行きを見極めるように空を見上げていた。一瞬考えるように目を瞑り、そして顔を下げるとよく通る声で告げた。
「総員退避っ、一雨くるわよっ」
「えっ!?」
 綾乃の声にグラウンドにいた部員が一斉に避難を始めた。相変わらずの統率力だ。
「綾乃、まだ走れるよ」
「いいから、葵もさっさと避難しなさい」
 言いながら綾乃は周囲にあった資料を掴むと、すぐさま避難場所である体育館の方へ走り出した。長い黒髪が動きにあわせて踊る。
「むぅ」
 軽く不満を覚えながらも、私はその後ろ姿を追った。
 
 結局、綾乃の判断は正しかった。
「うわあぁ」
 目の前は感嘆するほどの土砂降りだった。親指ほどの大きな雨粒が地面に叩き付けられ、土を抉り、泥水が霧のように跳ね上がっている。
 雨が降り出してから土砂降りになるまでの様子を、私は体育館のひさしの下から眺めていた。あっという間の出来事だった。
 霞がかったグラウンドの奥で、雨が降り出してからも練習をしていたサッカー部が慌てて避難しているのが見えた。もう少し遅ければ、私たちも濡れねずみになっていたのだろう。
「綾乃」
「なに?」
「気象予報士の免許でも取った?」
 私の言葉に綾乃は喉を鳴らして笑った。
「今日天気予報で言ってたのよ。今日は夕立があるかもしれないって。ま、朝ぎりぎりまで寝てる葵にはニュースなんて無縁かもしれないけどね」
「む」
 確かに、ここ数ヶ月朝の占いすら見た覚えがない。
「雨、あがるかな」
「まぁ、すぐあがるとは思うけど」
 綾乃は一度言葉を切り、視線をグラウンドの方に向けた。
「グラウンドの方がねぇ」
 綾乃の視線の先にあるのは、ほとんど水没してしまったグラウンドだった。表面にたまった泥水が、川になって流れている。
「ここのグラウンド、水はけ最悪だから。雨が上がっても使える状態にならないと思うわ」
「そっか、じゃあ」
「はい、集合ーっ」
 私が言い終わるよりも早く、綾乃は立ち上がって部員に集合をかけていた。
「グラウンドはたぶんもう使えないから今日はここで終了します。ダウンとマッサージをして、各自解散。あと、一年生。雨が上がってからでもいいから用具の片付けお願いね。では、ご苦労様でした」
 綾乃の言葉に男女総勢27名の陸上部員が一斉に「ありあしたーっ」と部活動的なのりで頭を下げる。その中で凛と胸を張って佇んでいる綾乃は、どこか風格を感じさせた。陸上部マネージャーにして部長兼書記兼会計、歩く陸上データベースと、鬼の金庫番の異名を部内にとどろかせる、それが鏡綾乃である。
 ちなみにその様子を見上げている私は副部長だったりする。といっても、仕事のほとんどを綾乃がやってしまうため、これまでにした副部長らしい働きといえば書類の副部長欄に名前を書いたことぐらいだ。綾乃の達筆の下に書かれた私のへなちょこ文字を思い出し、恥ずかしくなる。
「はいは〜い、マッサージの時間ですよ〜」
 指を怪しく動かしながら、綾乃が迫ってきた。にやにやと微笑むその表情には、どこからともなくオヤジ臭が漂ってくる。
「綾乃、変なことしないでよ」
 苦笑しながらも、私は体を横たえた。口ではそういいながらも、綾乃が変なことをしないのはわかっている。腕に顔を載せ、脱力して綾乃に身を委ねる。少し冷たい綾乃の手の感触がほてった筋肉に心地よかった。
「ねぇ、綾乃?」
「何ですか? お客さん。かゆいところでもありますか?」
「いや、そういうわけじゃなくてさ」
 薄霧を隔てて、夕闇に染まる古ぼけた校舎が見える。
 そこに一本の横断幕がかかっていた。真新しい白い記事に、個性のないゴシック体ででかでかと文字が書かれている。きっと学校の外からも見えるだろう。というかそのために作ったのだろう。
「あの横断幕なんだけど」
「あぁ、あれね。すごいわよね」
 私の内心を知っているからか、綾乃は笑いをかみ殺す雰囲気が伝わってきた。
 私はため息をつく。
 視線の先、風に煽られて揺れる横断幕にはこう書いてあった。
 
『女子100m走 倉橋葵 インターハイ出場』
 
「絶対、嫌がらせだよね」
「あははははははっ」
 綾乃は声を上げて笑った。
「嫌がらせなわけないじゃない。うちの高校から全国大会に出るの葵ぐらいなんだから。史上初じゃないかしら? なら、学校としても宣伝したくなるでしょ」
「でも、名前まで書くことないと思うなぁ」
 あの横断幕が張り出されてから一週間は、人の視線がとても気になった。登校するたび、横断幕を見、そして私に視線を移す様子はどう見てもさらし者だった。
 今でこそ多少落ち着いたけど、それ以来毎朝下駄箱にラブレターが入っているのはどういうことだ。しかもなぜか女子から。
「でも、あと一ヶ月か」
「正確にはあと38日と7時間、出走までは更に1日と10時間ってところかしら?」
「う〜、変にプレッシャーかけないでよ」
「嘘、プレッシャーなんて感じてないくせに」
「まぁ、確かにそうだけど」
「葵の場合、移動するのがめんどくさいとかそっちの心配でしょう?」
 う、図星だ。
「もちろん綾乃も付いてきてくれるよね?」
「う〜ん、どうなるかしら?」
「え」
 私は思わず上体だけで振り返った。そして綾乃のニヤニヤ顔を見て、すぐさまその真意を汲み取る。
「変な冗談やめてよ」
「大丈夫よ。部長権限で無理矢理予算引っ張ってくるし、万が一駄目でも私費で行くから安心しなさい。だからそんな捨てられた子犬のような目をしない」
 ぐっと上体を押され、再びうつぶせになる。背中に置かれた綾乃の手から心地よい圧力が加わる。
「でも、あと一ヶ月しかないのに練習時間がなぁ」
 6月中旬まで梅雨のせいでほとんどストレッチや筋力トレーニングばかりで、明けたと思ったら今度はこの夕立だ。プレッシャーはほとんど感じ無くても、やはり練習時間が少ないのは気になる。
「競技場使えるのはいつからだっけ?」
「来週からよ。今イベントやってて使えないそうなのよ。だからもう少し我慢しなさい」
「う〜、まぁ、それはいいんだけど」
 そもそも競技場を貸してくれるだけでも特別なのだ。すばらしきかなインターハイ効果。
「体育館とか使えないかな。部活終わった後でも」
 体育館からはバスケ部かバレー部のかけ声が雨音に混じって聞こえてくる。今は無理でも、終わった後なら少し貸して貰えないだろうか。
「あ〜、それは無理よ。この後、定時制学科が体育で使ったりするから」
「え?」
 私は思わず声を上げた。
「定時制って体育とかあるの?」
「当たり前でしょ。一応、高等学校なんだから」
 校舎の方を見上げる。でかでかと無駄に私の名前を誇示する横断幕の横では、まだいくつかの教室に明かりがついていた。定時制学科の教室の光だ。昔は結構あったらしいけど、それから統廃合を繰り返し、この学校に落ち着いたらしい。この地区ではもうここにしか残ってない。私も入学するまで定時制学科の存在を知らなかったほどだ。
 定時制学科というと、なんだかおじさんおばさんが通っているイメージが私にはあった。でも、この学校には結構年代が近い人が集まっているように思う。同い年か、あるいは二つ、三つ年上、もちろん中には結構年配の人もいる。
「でも、何で今時定時制学科なんてかようぐぅっ」
 言葉の途中で背中を思い切り押される。肺からあふれ出た空気で蛙のような声が出た。
「人それぞれ、いろんな事情があるのよ。葵みたいにね」
「むぅ」
 もう一度、校舎の方を見上げる。所々に雨粒が付いた窓に、人影があることに気づいた。顔は通り過ぎる雨粒のせいでよく見えない。目を凝らすと、男子生徒であることがわかった。
「?」
 定時制学科の生徒だろう。制服ではないラフな格好だった。長い前髪は目を覆い隠し、その表情を窺い知ることは出来ない。なんだかとても気になった。
「あ」
 一瞬、目があった。綺麗な瞳だった。数十メートルの距離があっても、それだけはわかった。吸い込まれるような、不思議な錯覚を覚える。深い、深い、澄んだ湖のように、その瞳はどこまでも綺麗だった。
 心臓が跳ねた。
(え?)
 息を止めているときのように顔が熱くなっていく。変なスイッチが入ったのか、不規則に心臓が暴れた。視線がそらせない。体が硬直したように動かない。逸らしたくない。
「しっかし、葵のここはいつまでたっても成長しないわねぇ」
「えっ?!」
 その時になってようやく、綾乃の手が『どこ』をまさぐっているのか気づいた。
「ふわあっ!!」
 
 
 靴ひもに手をかける。ウインドブレーカーに包まれた体は、気温と体温で火照り始めていた。走りたくなる衝動に、靴ひもを結ぶ手が早くなる。
「ねぇ、葵。今夜も走りに行くの?」
「お母さん。いつものことでしょ」
「でも、最近物騒な事件も多いし」
「ここいらで事件が起こったなんて話、生まれてから聞いたこと無いよ」
「でも」
 靴ひもを結び終わる。立ち上がり、足首を回してシューズを足になじませた。
「大丈夫だって」
 一度大きく体を伸ばし、ドアノブに手をかける。
「私より速い人なんて、そうそういないんだからさ」
 最後に一度振り返ってから、私は外に飛び出した。後ろから私の名前を呼ぶ声が聞こえてきたが気にしない。夜のランニングは何年も昔からほとんど毎日繰り返して来たことだ。走りに行かないとどこか落ち着かない。
 軽く息が弾むくらいのペースにあわせて、夜の街道を歩く。夕方に雨が降ったせいだろう。道路は薄く濡れ、夜の空気には微かに雨の匂いが混じっていた。
 誤って滑らないように、一歩一歩しっかりと踏みしめながら歩を進める。どこからか遅い夕飯の香りが漂ってきた。交差点ごとに置かれた街灯の光が、私の影を象る。影を追い越し、追い越されることを繰り返す。
 走るとき、どこに向かうのかは決めていない。気の向くままに、思いつくままに、いつもは曲がらない角を曲がったりしている。
「あ」
 曲がった路地の先に、小さな影がいた。思わずあげた私の声にぴたりと動きを止め、光る二つの瞳で私のことを見つめている。
「猫だ」
 進路変更をせずにそのまま進むと、猫は思い出したように駆けだし、あっという間に闇の中に消えてしまった。あのスタートの速度はやはりうらやましい。さすがは四足歩行だ。
 あまり街灯のない方に行かないように気をつけながら走っていると、白い光が私の影を色濃くした。光の方に視線を向ける。そこにあったのは私の通う高校だった。
 足を止める。思い出したように体が熱くなり、首筋を汗が流れた。
 白い光は教室から漏れる蛍光灯の光だった。青白い光に照らされて、濡れたグランドに出来た水たまりが浮き上がる。真っ暗な校舎に、教室とそこから昇降口までの明かりだけがついている様子はどこか不思議だった。まるで私の知らない学校のよう。
「定時制学科、か」
『人それぞれ、いろんな事情があるのよ。葵みたいにね』
 微かなつぶやきと同時に、夕方の綾乃の言葉を思い出す。
 私の事情、それはとても単純だった。綾乃がいたからという、ただそれだけの理由だ。
 小学校の頃から私はそれなりの大会に出て、それなりの結果を出していた。家には母親が並べたトロフィーがドミノのように並べられ、額縁に入れた賞状は仏間に飾られていたりする。その全てが綾乃のおかげだと、私は思っている。
 綾乃とは小学校入学前からのつきあいだった。そのころはまだ私は運動が苦手で、呆れた綾乃が指導してくれたのが最初のきっかけだった。私はすぐ綾乃を追い越し、小学校高学年には県の大会にも出場するようになっていた。綾乃は嫌な顔一つせず、私の指導を続けていた。大会にはいつも付き添い、毎日バランスのとれたお弁当を用意し、中学に入ると陸上部のマネージャーとして私のことを指導してくれた。
 ずっと綾乃がいてくれたから、辛い練習にも耐えられた。綾乃の指導があったから、私はインターハイまで行くことが出来た。
 中学の頃、何度か有名な私立校からスカウトがあった。学費免除、寮も完備で生活費もいらないというとんでもない待遇だった。でも私は断った。いくら優秀な指導者でも、顔を見ただけで体調を当てることは出来ないだろう。
 それに、確かに走ることは好きだけど、やはり好き以上のものではない。将来、実業団に入って陸上を続けている自分なんてイメージできないし、たった一人で厳しい練習に耐えられる自信もなかった。周囲の再三にわたる説得のせいで推薦入学の機会を逸した私は、結局綾乃と同じ高校に一般入試で入り、今も綾乃と一緒に走り続けている。
「あ」
 物思いにふけっていると、教室の明かりが一つ消えた。授業が終わったのかもしれない。
 それと同時に昇降口からいくつかの人影が現れた。白い光が逆光となって顔はよく見えない。
 昇降口から離れるにつれ、ぼんやりとその表情が浮かび上がる。知らない人たちの中に、一人だけ見覚えのある顔があった。どこかで、それも最近見たような気がする。
 長い前髪、その奥に澄んだ瞳が見える。部活の時に見た、あの男子生徒だった。
「え?」
 気づいた瞬間に、私は路地裏に身を隠していた。遅れて、自分が一体何をしているのか疑問を覚える。隠れる理由なんてどこにもないのに。
 自分の体を見下ろす。白いウインドブレーカーというかわいげの何もない格好だった。走ったせいで、どこか汗くさいような気がする。こんな格好を見られるのが嫌だった。
(誰に?)
 自問自答する。まさか、と思ってもう一度、校舎の方を見た。
「じゃ、また」
 友人に別れを告げる声が、私の耳まで届いた。だいぶ遠くにいるはずなのに、その声は不思議と鮮明に聞こえる。
 心臓が跳ねる。顔が熱くなっていく。全力疾走したときのように、息が苦しい。
(どうして?)
 部活の時のように、いたずらをする綾乃の手はどこにもない。なのに、胸の鼓動が収まらない。それどころかどんどん速くなっていく。吐息が熱い。
 彼の姿がどんどん小さくなっていく。やがて光が届かなくなり、どこかの角を曲がったところで見えなくなった。
 ようやく心臓が落ち着きを取り戻す。でも、今度は締め付けられるように苦しくなった。
 彼が曲がった角を見る。もうそこには誰もいない。古ぼけた街灯に、虫の影が映るだけだった。
 大きく息を吐く。ふと、まぶたが熱くなっていることに気づいた。
「どうして?」
 私の小さなつぶやきは、誰にも聞かれることなく夜の闇に吸い込まれていった。
 
 
「おはようございます、おばさん」
「おはよう、綾乃ちゃん。いつも悪いわね」
「いえ、ほとんど趣味のようなものですから」
 重い頭に人の声が響く。綾乃のものだとすぐわかった。少し言葉を交わした後に、階段を上る音が聞こえてくる。そしてノックもせずに部屋の扉が開けられた。
「葵、起きなさ」
「起きてるよ」
 綾乃の言葉を途中で切る。不機嫌な声になってしまうのは仕方がない。目は半分も開いていないし、頭は振り子のように揺れている。完全な寝不足状態、右目で現実を、左目で夢を見る。
「うそ」
 涙でぼやけた視界の中に、鳩が豆鉄砲の直撃を食らったような顔をした綾乃が映った。
「夜は十時まで起きていられず、朝は登校時間ぎりぎりまで起きない小学生顔負けの睡眠時間を誇る葵が私の来る前に起きているなんて。青天の霹靂だわ。今日は竜が召還されるわね」
「むぅ」
 とんでもない言われようだけど、今は反論する気力もない。そもそも綾乃が部屋にやってくるより早く起きたことなんか数えるほどもないのだ。反論できるわけがない。
「何か、あったの?」
 綾乃の言葉に気遣う様子が伝わってきた。
「何でもない」
「もしかして眠れなかったの?」
 適当に答えても、綾乃はやはり原因を突き止めた。
「夜にホラー映画を見て、怖くて眠れなかったとか?」
 何という小学生扱いだろう。確かにホラー映画は嫌いだけど、見る前にチャンネルを変えるというスキルを中学生の頃に取得している。
 答えずにいると、綾乃は考えるように形の良いあごに手を当てた。そして私の意識が2、3度飛びかけるほどの間を置いて、綾乃は言った。
「もしかして、恋の病?」
 一瞬、瞑りかけていた目蓋が2ミリほど動いた。
 昨晩の私はおかしかった。眠ろうとするとあの声が頭に蘇り、眠りに落ちる直前になるとあの透き通った瞳が浮かび上がった。その度に目が冴え、心臓の鼓動が速くなり、次の睡魔が訪れるまでそれが続いた。そんな悪循環のあげく、結局眠れたのは数時間程度だった。
 これが俗に言う恋の病というものだろうか。でも名前も知らないし、顔だってまともに見たことがない。
「ぁぅ」
 一瞬、強烈な眠気に世界が回ったように気がした。今まで溜まっていた睡魔が洪水のように押し寄せてくる。綾乃の声を聞いて安心したせいだろうか。体を起こしているのも辛い。頭を支えていることも出来ず、ゆらゆらと視界が揺れた。
「葵?」
 綾乃の声がどこか遠くに聞こえた。一瞬の暗闇の後、綾乃の姿が消え、木目調の天井が視界に広がった。不規則な木目が解け合い混ざり合い、そして黒く染まっていく。
「二度寝しないっ! 遅刻するわよっ!」
「今日は、臨時、創立記念、日っ、てこと、で」
「そんなもの臨時に作らないでっ」
 そのあと、私は綾乃にベッドから引きずり出され、半開きの口に朝食を押し込まれ、終いには抱き抱えられるように学校へと連れて行かれた。
 半分夢の中で、こんなことをしてくれるのはやっぱり綾乃しかいないだろうと思った。
 
 
 放課後、昨日とはうってかわって空は綺麗な夕焼けに染まっていた。その代わりにグラウンドの吸った水が蒸発しているのか、肌に絡み付く空気は蒸し暑く、汗がじっとりと全身に浮き上がる。
 軽くインターバルをこなした後、私はその汗を振り払うように大きく腕を回した。一瞬の爽快感、しかし動きを止めるとすぐに新たな熱気が腕を取り巻く。もう一度回す。止める。回す。止める。回す。
「何やってるのよ」
 ふと呆れ調子の声が聞こえた。綾乃の声だった。
 視線を向けると、どことなく疲れた様子の綾乃がそこにいた。いつもピンと伸ばされた背筋は今にも胴体がへし折れそうなブロンズ像のように頼りなく、長く綺麗な黒髪は所々跳ねてしまっている。今日の綾乃が着るジャージは他の人がいるときと同じように、ださださに見えるから不思議だ。
「綾乃、疲れてない?」
「疲れてるわよ。朝から誰かさんを担いで15分の道のりを歩いたのよ。ようやく辿り着いたと思えば、誰かさんはお昼休みまで寝続けるし。そして放課後になったと思ったら元気に走り回るんだもの。もうちょっとエネルギーの配分を考えて欲しいわ。おかげで筋肉痛になったじゃない」
「む。そんなに重くないよ、私」
「私は日本美術大全フルカラーで税込106,890円より重いものをもったことがないのよ。葵のようにダンベルをひょいひょいと動かせるほどの筋力なんて無いんだから」
 その本がどんなものか知らないけど、名前からして5キロのダンベル以上に重そうな気がする。10万円もする本ってどんな本だろう。開いた瞬間に眠気が襲ってくる魔法の本だろうか。
「とにかく、今日はあと100mを五本やって終わりにしましょう。グラウンド状態もよくないし怪我しないように気をつけなさい」
「は〜い」
 返事をしてスタート地点に足を向ける。ふと、私服の人が校門を抜けるのに気づいた。所在なげに視線を彷徨わせながら昇降口に向かっている。定時制学科の人だろう。
「葵、どうかしたの?」
 綾乃の声で、自分が何かを探すように視線を彷徨わせていることに気づいた。
「え、あ、うん。な、何でもない」
「?」
 綾乃の追求を避けようと小走りにスタート地点に向かう。一年生のマネージャーにお願いして、ピストルともってきてもらう。待っている間にスターティングブロックの位置を合わせる。
 定時制学科の授業は、だいたい6時から始まるらしい。だから定時制学科の登校と、部活動の時間は少しかぶる。だからもしかしたら通りかかるかもしれない。もう、教室にいるのかもしれない。昨日のように、私をみているかもしれない。
(誰が?)
「あ、あの。先輩?」
「あ」
 遠慮がちな声に、意識を引き戻される。顔が紅潮しているのがわかった。熱い。
「大丈夫。それじゃお願い」
 紛らわせるために適当にブロックをセットして、立ち上がった。いつもと同じ場所だから、大丈夫だろう。
「はい、わかりました」
 一度、大きく屈伸して筋肉を伸ばす。目線だけでマネージャーに合図をした。
「位置について」
 スターティングブロックに足をかける、地面に付いた膝と足がじわっと湿った。露出の多いウェアからはみ出す腕と太ももが目に付く。女らしくない筋肉が付いた色気の何もない手足。急に恥ずかしくなった。
 心臓が暴れ、顔が熱くなる。頭を振って、気持ちを切り替えようとする。
「よーい」
 弓のようにきつく体を引き絞る。体重を受けて指が土にめり込んだ。
 頭の中を血流が巡る。重く、激しい拍動が嫌に響き渡った。指が震え、吐く息が震えた。
 そして、乾いた銃声と共に全身で床を蹴る。ふわりと体が浮いた。
「ぇ」
 離れていくはずの地面が、なぜか目の前にあった。目と鼻の先、砂の細部まで見て取ることが出来る。
「葵っ!」
 100メートル先にいるはずの綾野の声が、不思議と近くに聞こえた。悲鳴のような叫びだった。何で綾乃がそんな声を出すのだろう。そう疑問に思った瞬間に、目の前が真っ暗になった。
 
 
「あっははははははははははははははは」
 病院の消毒液臭さがなくなると同時に、綾乃の高笑いが夕闇に響いた。先ほどまで空を夕焼けに染めていた太陽は、病院の中にいるうちに沈んでしまい、今は西の空がほんの少し明るく見える程度だった。駐車場の明かりが、薄く私達の二人の影を象る。
「むぅ、笑わないでよ」
 ほんの少し肌寒くなった空気が、よけいに頬の熱さを意識させた。熱さの原因は、怪我からくる火照りでも何でもなく、ただ羞恥によるものだった。
「笑いたくもなるわよ。全治1日なんて初めて聞いたわ」
「うぅ」
「スタブロのチェックを怠った罰だと思いなさい。本番だったら笑い事じゃないんだからね」
「わかってるよ」
 原因はものすごく単純だった。ブロックがきちんと填っていなかったのだ。そして踏み込んだ瞬間に外れてしまい、足下をすくわれた私は盛大に転倒、そのときに弁慶の泣き所を強打し、痛みで声が出なくなった。
 私が悶絶している間に、迅速な陸上部部長の判断により救急車が呼ばれ、あっという間に病院に搬送され、レントゲンをはじめとする豪華精密機検査の歓迎を受けた。小一時間に及ぶ検査の結果、下された診断がすねの打撲・全治一日という病院に駆けつけた母親と、顧問の先生、校長先生、教頭先生をずっこけさせるものだった。みんなが解散するまで穴があったら入りたい、むしろ穴を自分で掘りたい気分だった。
「綾乃のせいだよ。こんなに大事になったのは」
 はじめはこの世の終わりのような真っ白な顔をした綾乃だったけれど、救急車の中で怪我が大したことがないと気づくと安心したように血色を取り戻し、検査の間はずっと笑いをかみ殺していた。そして今、溜まった笑いを放出するように、夕闇の中に笑い声を吸い込ませている。お腹を抱えて笑う綾乃にあわせて、長い髪と影が揺れた。
「だって葵の転び方すごかったのよ。アクション映画みたいに派手に転んだんだから。いくら声をかけても、すねを押さえたまま全然答えないし。てっきり骨折でもしたのかと思ったのよ」
 綾乃の視線が私の脹ら脛に向けられる。そこには申し訳程度に巻かれた包帯があった。ちなみに、ぶつけた部分には湿布ではなく絆創膏が貼り付けられている。包帯は気休め、というかお医者さんの気遣いだろう。
「でも、大したことがなくてよかったわ」
 街灯の白い光が、綾乃の白い顔を照らし出す。浮かび上がったのは、安堵の笑みだった。本当によかった、ただ純粋にその思いだけが伝わってくる。照れくささが、頬を熱くした。
「綾乃は、心配しすぎだよ」
「あら、当たり前でしょう」
 綾乃の白く細い指が私の額を小突いた。そして何の照れもなく私に告げる。
「私にとって、葵はお姫様なんだから」
 私なんかよりもずっとお姫様にふさわしい綾乃は、どこら誇らしげな表情をしていた。
 
 
 ランニングシューズの紐をきつく結ぶ。足首を回してみた。
「うん、痛くない」
 跳んだり跳ねたりしてもぶつけた箇所は全然痛まなかった。思い切り地面を蹴ると、軽く凍みるような痛みが走る。でも、このぐらいなら大丈夫だろう。
「ちょっと、葵っ! 今日病院に運ばれたっていうのにあなたっ」
「うわっ、見つかった」
 背後からの雷の気配に、私はあわてて外に飛び出した。
「葵っ!? 待ちなさいっ」
「大丈夫っ! ほんのちょっとだけだから」
 最後にそういい残し、ドアを閉めて雷音をシャットダウンした。でも、雷の驚異の前にドアなんか紙の盾も同然だ。突破される前に、私は急いで夜の町へと繰り出した。もちろんランニングのためである。
 昨日より乾いた空気が頬に乗って、今日は焼き魚の匂いが漂ってきた。足の事を考えていつもより軽めに、ゆっくり走る。痛みは感じてなくても、無意識のうちに負担が片足に偏ってしまう事がある。今日はいつもより早めに帰ってこよう。
 街道沿いの比較的明るい道を歩く。点々と置かれた街灯が、私の影を四方に薄くのばす。どの影を追い越したのか、どの影に追い越されたのか、今日は目で追う事が出来ない。時々通りかかる車が、地面には影を、網膜には残像を焼き付けて去っていく。
 ふと、薄闇に私の高校の名前を見つけた。それは標識だった。闇に埋もれながら、ひっそりと道を示している。
「ぁ」
その道を曲がった事に気づいたのは、蛍光灯の光が私の目を射抜いた後だった。
 定時制学科の教室から漏れ出す生白い光が、校庭に透明なグラデーションを描く。その光に答える水たまりは、もう残っていなかった。
 暗闇に目を凝らして時計を見る。昨日より、早い時間だった。下校に鉢合わせするような事はないだろう。
 光しか見えない教室を眺めていると、汗が首筋を落ちていく。逆にウインドブレーカーにこもった熱が、首の隙間から立ちこめる。
(汗くさいな)
 恥ずかしさが、余計に体を熱くした。見上げてあの人を捜し続けている自分が嫌になる。こんな女らしくもない私を見てくれるわけがない。
 部活の時もそう。見てくれるはずがないのに。余計な事を考えて、綾乃に、みんなに迷惑をかけた。
(変だな、私)
 私がよくわからない。どうして彼の事を探しているのか。見つけてどうしたいのか。彼に何をして欲しいのか。
(好き、なの?)
「わからないよ」
 そのつぶやきは誰にも聞かれることなく、夜の風にさらわれた。
「どうかしましたか?」
 さらわれた、はずだった。
「え」
 聞き覚えのある声だった。たった一回聞いただけなのに。それは聞き慣れた声のようにすぐ判別できた。
 胸が締め付けられる。振り返るのがとても怖かった。でも、振り返りたい。勝ったのは校舎の欲求だった。
 ゆっくりと、ブリキの人形のように首を回す。そして、彼の姿が目に入った。長い前髪と、その奥に見える透き通った瞳が私の姿を写す。
 頭が真っ白になる。何を言っていいかわからず、金魚のように口を開閉する。口の中が渇き、唾液が絡み付くようだった。
「あの、大丈夫ですか?」
 私の反応に戸惑った彼の声が、さらに私を冷静でなくする。心臓は痛いほどに拍動し、嫌な汗が背筋を流れた。思わず後退る。
「ぁ」
 足を地面についた瞬間、凍みるような痛みがすねに走った。かくんと、膝から力が抜ける。バランスが崩れ、後ろ向きに倒れそうになる。
「危ないっ」
 手を取られた。後ろに傾いた重心が前に引き戻される。ひやり伸した手の感触が伝わってきた。彼の手が冷たいのではなく、私の手が熱いのだ。汗でぬれた手を思い出し、また恥ずかしさに顔が熱くなった。
 どうしていいかわからず、思考が真っ白になる。緊張に体が硬直した。
「えっと」
 戸惑いをはらんだ彼の瞳が、私を見つめる。透き通った瞳に蛍光灯の光が映っていた。瞳を包む括約筋の模様がよくわかるほど近くに、彼の顔がすぐそばにあった。胸が痛い。頭は心臓の音で埋め尽くされる。息をしているのかどうかもわからない。目の前が真っ白になるような錯覚にとらわれる。
「あのぉ、もしかしてどこか怪我をしてるんじゃ」
「ぇ?」
 その声は、彼の声ではなかった。錯覚が一瞬のうちに打ち消され、生白い光に照らされた夜が舞い戻る。
 声、少女の声がしたほうに視線を向ける。
 今まで気づかなかった。彼の横、それもすぐ側に一人の少女がいたのだ。肩のあたりで切りそろえられた髪は動きにあわせて柔らかく揺れ、スカートから覗く白い足は女性らしくしなやかに細かった。子犬のような瞳が、心配そうに私のことを見上げていた。
「ぁ」
 呻くような声とともに、感じていた熱が一気に冷めていった。冷たい汗が体を伝う。
 授業中の彼が、どうしてここにいるのか私にはわからない。
 彼のことは何も知らなかった。名前も、人柄も、何もかもわからない。
 それでも、たった一つだけわかった。
 すぐ側にいる少女が、彼にとってどういう存在なのかを。
 わかってしまった。
「っ」
 そして私は逃げ出した。
 自分の口から何事かをいうと、冷たい手を振り払い走り出す。後ろから何か声をかけられたような気がした。でも、その言葉は私の耳に、頭に届かなかった。
 ただ、何も考えずに足を進める。体が熱くなり、息が苦しくなる。全身に血液を送り出す心臓の鼓動が頭に響いた。
 それでもどこかが寒かった。穴が開いたように、すきま風が入り込むように、どこかが、心が寒かった。
 その寒さを忘れるために走る。ペース配分も、行き先も、何も考えずに走る。
 そして息が切れ、体が重くなり、心臓が痛くなり、やがて足が動かなくなった。
 膝に手をついて、大きく息をつく。その姿勢を維持するのもつらかった。眩暈に足がふらつき、その場に倒れ込んだ。
 仰向けに寝ころびながら、荒い息をつく。むっとするような熱気が体を包み込んだ。汗が胸からお腹へと伝わっていく。
 やがて息が落ち着いてくる。冷えた体は、地面に貼り付けられたように重い。どうにか首を巡らせて、周りの様子を見る。
 ここは近くの河川敷だった。心臓の音に混じって、川の流れる音が耳に入る。草の匂いに混じって、かすかに汗の臭いがした。
 大きく息をついて体を起こした。倦怠感に包まれた体では、それだけでも重労働に思えた。
 川を流れる水面に街灯の光が反射している。周囲を探しても、残念ながら石ころは転がっていなかった。あれば、それを水面に投げ込んでいたのに。
 コンクリートで作られた河川敷には、申し訳程度に植えられたススキが幽霊のように揺れるだけだった。計画的に植えられた芝生に、再び頭を落とす。
 見上げる空には霞がかかったような月があるだけだった。街灯の光のせいで、私まで星の光は届かない。
「なんだったんだろう」
 先ほどまでの事が嘘のように、落ち着いていた。彼のことを考えても、あのきれいな瞳を思い出しても、心臓が暴れることはなかった。ただ静かに、針で刺すような痛みが走る。
(好き、だったのかな?)
 それすらもわからない。結局、何もかもわからずじまいだった。
 でも、これだけは言える。
(好きになる前に、好きだとわかる前に振られたんだ)
 初恋、かもしれないあの気持ちは、本当に夕立みたいだった。
 前触れもなく突然降り出して、そしてあっという間に去ってしまう。水たまりだけを残して。
 でも、その水たまりもいつかは渇いてしまう。その後には何も残らない。
 この気持ちも、いつかは忘れてしまうのだろう。だから、
(だから、水たまりがなくなるまでは)
 そう心の中で呟いて、私は額の汗とともにまぶたをそっと拭った。
 
2007/5/5日 著

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