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意地悪な世界
 
 ──世界はいつだって意地悪だ。
 例えば、遠足の日に雨が降ったり。例えば、マラソン大会の日が炎天下だったり。例えば、朝一気飲みした牛乳が腐っていたり。
 そして、この真冬に花火が必要になったり。しかも、轍(わだち)の上を自転車で走行することになったりと。
「ぐおおおおおおっ」
 ハンドルを握りしめる手に力を込める。しかし、冷え切った手は痛み以外の感覚を切り捨てたらしく、全く反応が無かった。風を切る耳はちぎれるほど痛い。
 時折やってくる車が、驚いたようにヘッドライトを揺らす。下手をすれば、このまま天国に直行だ。
 とにかく、轍に自転車の細いタイヤを合わせることに集中する。固まった手をこじ開けようと、手に力を込め──
「ぇ──」
 一瞬の浮遊感。頭上にあるはずの星空が、なぜか目の前にあった。
 教室の隅に佇むように、そいつはひっそりと座っていた。
 よく言えば大人しい、悪く言えば地味な少女。視線はほとんど下を向いていて、授業中に黒板を見る以外に上を向いたのを見たことがない。休み時間はいつも一人で本を読み、目にかかる前髪がカーテンのように周囲を拒絶していた。
 三橋──といっただろうか。名前すらおぼろげな彼女とは、今まで言葉を交わす機会もなかった。こうして向けている視線も、黒いカーテンに拒絶され、交差することはない。
 教室を満たす喧噪の中、いつも三橋の周囲だけが切り取られたように静かだった。
「……………………」
 三橋が明日転校するという噂を聞いたのは、ついさっきのことだった。
 
 なにも変わらない一日だった。ホームルームもいつも通りに終わり、放課を告げるチャイムが鳴ると、あっという間に人気が消えていく。
 閑散とした教室。三橋はまだそこにいた。夕日に照らされ、本に落とす目は微かに細められている。いつものように、最終のバスまでの時間をそうやって過ごす。たった一人で……。
 三橋を残して教室を出た。紅く染まったリノリウムに足音が反響する。歩き慣れたはずの廊下が、どこか長く感じられた。
 頭の中にずっと三橋の姿が残っていた。たった一人の教室で本を読む三橋。知る限り三橋はずっと一人でそうしてきた。そしてきっと転校した先でも。
「……………………」
 嫌なものが胸に立ちこめる。外に出て、刺すような冷気が身を包んでも、それは消えなかった。逆に、それはどんどん大きくなり、そして──
「あぁっ! もうっ!」
 体を動かした。
 鞄を背負い、雪が積もった地面を走り出す。
 ──花火を探しに。
 
 それは去年の夏こと。直前に降り出した雨のせいで花火大会は中止になった。一緒に行った友人たちと雨宿りをしていると、不意に三橋の姿が目に入った。
 花火大会だというのに、三橋は制服姿だった。三橋は雨に濡れるのも構わず、たった一人で花火が打ち上げられるはずだった場所をずっと見つめていた。それで花火が好きなんだと思った。
 だから今、花火を探している。
 だが今は真冬だ。花火なんて売っているはずがなかった。尋ねた店員に奇妙な目で見られながら、何件も店を回った。でも見つからなかった。
 一縷(いちる)の望みをかけて、家までの坂を駆け上がった。押し入れをひっくり返し、物置をかき回し、花火を探す。
 なぜこんなことをしているのだろう。話したことすらないのに。でも、そうせずにはいられなかった。そして──
「あった!」
 ようやく見つけたのは、たった一束(ひとたば)の線香花火だった。それを大事にポケットに入れる。
 時計を見ると、最終バスまで残された時間はあまりなかった。歩いていては間に合わない。自転車を引きずり出してまたがる。長い下り坂に一瞬、躊躇(ためら)った。
「転けたら……死ぬかも……。でも──」
 悪い想像を振り払い、力強くペダルを踏んだ。
「……というわけで、転けましたよ」
 ぼやきながら体を起こす。幸いなことに酷い怪我はしていなかった。雪のせいで転け、雪のせいで助かった。
「おかげでずぶ濡れだけどな」
 時計を確認する。これなら歩いても大丈夫だろう。かえって邪魔になる自転車を置いて、歩き出す。
 ふと昔、転校していった友達のことを思い出した。仲のよかった友達だった。手紙を書くと、また会おうと誓った。……もう、顔も名前も覚えていない。思い出すらない。ただ転校していった友達がいた、という情報だけ。
 それが余りにも虚しかった。哀しかった。だから、花火なんて探したのかもしれない。せめて、真冬に花火なんて奇妙なことをしたという思い出さえ残れば、そう思って。
 そしてそこに辿り着いた。生白い街灯に照らされて、三橋は一人バス停に佇んでいた。すぐ側に立っても、視線すらよこさない。自分に話しかける人なんて、いないと思ってるんだろう。
「──三橋」
「ぇ」
 声をかけると、三橋は弾かれたように顔を上げた。視線が交錯する。黒いカーテンの拒絶を超えて、おそらく初めて見つめ合った。
 三橋は驚いたように硬直していた。いきなり話しかけたせいか、それとも自分の酷い姿のせいか。今はそんなことどうでもいい。
「ちょっといいか?」
「──ぇ、でもバスが」
「時間は取らせないから」
 そういって街灯の光の外に三橋を連れ出す。そしてポケットに手を差し込み──
 
 ──世界はいつだって意地悪だ。
 
 濡れた感触が手を包み込んだ。
「──ぇ」
 それを取り出す。ずぶ濡れになった線香花火が姿を見せた。さっき転んだときに、濡れてしまったんだ。
「線香……花火?」
 三橋のか細い声は耳に届かなかった。
 線香花火は使い物にならない。そもそも点火するためのライターを持って来ていない。
「ぇっと……」
 戸惑った三橋の声。当然だろう。自分でも何をしているかわからない。後悔が疲労となって押し寄せた。
「どうして……線香花火を?」
「………………花火好きだろ」
「ぇ……。そう、だけど。でも、どうして私に?」
「……思い出にって思ったんだ。最後に」
「最後?」
「だって、転校するんだろ。明日。だから──」
 こんなもの、思い出にすらならない。ただの間抜けだ。情けなさに泣きたくなった。そして──
「…………………………転校?」
 
 ──おそらくそれは人間が想像も出来ないくらい意地が悪く、人を小馬鹿にするのだ。
 
「……私、転校しないよ?」
「……………………はい?」
 世界が静止した。頭の中でクエスチョンマークが指数的に増加していく。全身を、ものすごく嫌な寒気が襲った。
「ぇっと……もしかして、あれかな……」
 三橋はたどたどしく説明してくれた。
「お父さんが転勤が決まって……それで一度、転校の話が出たんだけど……でも単身赴任することに。たぶん転校っていう……噂だけ残っちゃって……」
「うわさ?」
「うん、噂」
 噂、そうか。噂だったのか。なるほど。
「ぇっと……」
 三橋は困ったように、視線を彷徨わせた。それと同時に、大きなヘッドライトを光らせた最終バスがバス停に止まる。
「ぁ……ごめん。乗らなきゃ」
 そういって三橋は背を向けた。昇降口のステップに足をかけたところで、振り返った。そして、恥ずかしそうに微笑んで──
「ありがとう。私のために」
 バスの扉が閉まり、そして発車する。バスが完全に見えなくなるまで、動けなかった。ようやく足が動くようになると、路肩に歩み寄り、積もった雪に顔を埋めて冷やす。
 そういえば、三橋の笑顔を初めて見たことに、今更気づいた。
 
「何だその顔。熊にでも襲われたか?」
 次の日、教室に入るや否や、友人の放った言葉がそれだった。転んだときに出来た傷と、霜焼けのせいで、顔が真っ赤に腫れていたのだ。とりあえず、その友人にボディブローを叩き込み、着席する。
「………………………………」
 若干の抵抗を乗り越えて、そこに視線を向ける。いつも通りの三橋の読書姿が目に映った。まるで昨日のことなど、なにもなかったようにも見える。むしろ、そうであって欲しい。
「──ぁ」
 ふと三橋が向けた視線と、交錯した。一瞬で顔が紅潮するのがわかった。誤魔化すように笑うと──
「──っ」
 驚いたように、三橋は視線を逸らした。その挙動に更に落ち込んだ。……しかし。
「…………………………」
 ゆっくりと、三橋が振り返る。再び視線が混じり合う。もう黒いカーテンは拒絶していなかった。そしてはにかむように、三橋は微笑み──
「ぉ、おはよう」
 消え入るような声でそう言った。
 
 ──世界はいつだって意地悪だ。おそらくそれは人間が想像も出来ないくらい意地が悪く、とんでもない方法で人を馬鹿にするのだ。
 でも、まぁ……。時々、そういうのもいいかなって思えるときがある。
 もちろん、時々、なんだけど。

読み終わったら是非感想をお寄せください。今後の作品作りの参考にさせていただきます。 

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